札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第八章 札幌県と札幌

第三節 移民政策と移住の進展

四 諸村の動向

 この時期の諸村の生活面における状況はどうであったろうか。ムラのくらしについては第九章でもふれられるが、ここでは諸村の生活面の比較を行うことにしたい。
 表6は明治十五年七月~十二月における、各村の諸物産の生産高をまとめた「管内物産表」(札幌県治類典 道文七四二一)を、ここでの必要項目のみを一覧にしたものである。物産総収入高(正式には「一村内物産収入総金高」)は、農産物・果樹・木材・薪炭・牧畜等の生産高を価格におきかえ総計したものである。これにより各村の総生産高がわかる。販売高(売粥(うりひさぎ)金高)は生産物のうち販売した金高である。生産物のうち、どの程度の割合で販売にまわしていたかもこれにより判明する。需用品高(需要品買入高)は、米・酒・味噌・醬油・塩の日常必要な食料・調味料の買入高である。薪・炭は製造のうちの販売高(売粥通価)で、薪・炭の販売が各村の状況により異なっていることがよくわかる。農地面積(耕地反別)はほとんど畑地で、一戸当農地は農家数をもとに算出したものである。また一戸当収入高も、物産総収入高を戸数で割って算出したものである。
表-6 「管内物産表」による諸村の状況(明治15年7月~12月)
戸数口数物産総収入高販売高需要品高薪販売高炭販売高農地面積商業工業漁業雑業1戸当
農地
1戸当
収入高
山鼻262戸1382人14483円7826円7397円50円154円407町0反15.53反55円28銭
円山5330745472932261920011588.416.6885.75
琴似3091425304391630115585300345393.23312.9898.51
発寒512326313435116272084.3116.86123.78
手稲6330468992894301116179.512.61109.50
手稲16343912724865922481083192048.02493.2478.06
豊平12632417521212607210028.1302.9213.90
平岸5946843302848217124090072.312.2573.39
月寒215855782151965582280216097.94.5536.38
白石381371615128358745.612.0042.50
白石1004696810597828081102220106.910.6968.10
札幌9444513629112232687360184.4821.44144.99
苗穂112496964965052433148.513.2686.15
雁来5826622801739135656.79.7639.31
丘珠52214538322962082250101.419.50103.52
篠路1635911519390129887.45.369.31
1.『札幌県治類典』(道文7421)より作成。
2.戸数,口数は本籍,寄留の合計。
3.物産総収入高は項目名は「一村内物産収入総金高」。販売高は「内売粥金高」。需要品高は「需要品買入高」の米,酒,味噌,醤油,塩の合計。薪炭販売高は「売粥通価」。
4.農地面積は田畑(ほとんど畑地)の総計。
5.一戸当農地は農業戸の一戸当を計算。一戸当収入高は物産総収入高を戸数で割って計算。
6.物産総収入高以下の円未満(銭,厘)は切り捨てた。

 表6によって以下のことが判明する。物産総収入高をみると、一万円をこえている村は山鼻・琴似・下手稲・札幌の四力村のみで、屯田兵村となっており戸数も多い山鼻・琴似村は当然のように思われるが、手稲は戸数も多いが薪・炭の販売量が約三〇〇〇円もあって諸村では一番多い。販売高の三五パーセントほどを薪・炭の販売に依存している。手稲にはすでに山口県から四〇戸ほどの移住者が入地していたが、彼らは副業として薪をつくり銭函の漁場、小樽・高島へ販売していた(市史 第七巻八二六頁)。『札幌区市街各村之開拓ノ顚末』(明治十年調、伊東正三資料 函図)でも、手稲は旅人宿・煮売店・馬追・樵夫・炭焼が多いと述べられ、銭函街道の要衝として以前から農業以外にも収入を得る手段がとられていた所であった。表6にも商業二戸、工業四戸、雑業九戸が認められる。工業は馬車・馬ソリの製造、雑業は馬追などでいずれも運送関係の職業とみられる。軽川(現手稲本町)にはすでに幌内鉄道の停車場もおかれており、ここを中心に市街形成の途次にあったはずである。
 札幌村は戸数は中位であるにもかかわらず物産総収入高が多いのは、表には掲載しなかったが穀類・蔬菜類の生産高が高いことによる。札幌村はイシカリ御手作場以来の開拓の歴史をもち、諸村より早くから開けていた所なので、一戸当農地も二町一反ととびぬけて多い。この結果、一戸当収入も約一五〇円と最も高くなっている。札幌村は諸村の中でも、当時は一番豊かで安定的な生活を送っていたといえる。
 逆に物産総収入高の低い村をみると、豊平・上白石・篠路の三村となる。豊平村は耕地面積が最も少なく、その反面商業が三〇戸もある。すでに豊平村は室蘭街道から札幌へ入る入口として、市街化と商業地域へとむかっていたことがわかる。一戸当収入高が約一四円と篠路村についで低いのは、商業戸も含めて算出されたことによる。農業戸のみでは一八円二五銭となり、やはり低いことには変わりはなく、一戸当農地もわずかに約三反である。おそらく専一の農家は少なく、札幌市街での雑業に従事する兼業者が多くしめていたであろう。
 上白石村はもとより面積が少なく、戸数も僅少な所だけに物産総収入高も低くなるが、戸主の大部分が旧士族のため官吏を兼ねる者も多く、専業農家でなかったことにも要因があるだろう。篠路村は山鼻・琴似の二兵村に次ぐ大村であるにもかかわらず、極端に低くなっている。この原因は、この年(十五年)四月下旬から五月上旬にかけて発生したたびかさなる水害の影響をうけたもので、「篠路村字茨戸近傍ハ水溢レテ一望海ノ如ク」(札幌県勧業課第一年報)と報告されていた。本来はもっと生産高は高いと思われるが、一戸当収入高もわずか九円余で最も低い。篠路村の一戸当収入高がこのように極端に低くなった原因は、この年福岡県から開墾社の士族(三六戸一五五人)が移住していることもある。開墾社ではこの年はほとんど開墾に着手していない。そのために、一戸当農地及び一戸当収入高の平均値も大きく下っている。ちなみに十四年の篠路村の一戸当農地は一町六反である(開拓使事業報告 第二編)。
 表6からさらにいくつかの興味深いことがわかる。まず需用品高をみると、たいていは販売高より低くなるのが普通であるが、上手稲・豊平・月寒・篠路村は超過しており、豊平・篠路の二村は物産総収入高からも超過している。豊平村は商業の売上や雑業の賃金で補充されただろうし、篠路村は水害の影響とみられるが、需用品が販売高を上回っていることは、それだけ村民の負債がつのることであり、地所を手離し離村することは必至であった。
 薪・炭販売高をみると、下手稲・月寒・白石村が多い。いずれも近辺に広大な山林をかかえている地域である。月寒村の場合、のちのことであるが『函館新聞』(明治二十年一月二十三日)には、厚別(あしりべつ)(現豊平区清田付近)には四〇戸ほど居住者がおり、多くが材木・屋根板の伐出し、炭・薪の製造に従事していたという。旅人宿も二軒あったというが、運送に便利な室蘭街道沿いの山林で薪・炭の製造が行われ、移住民にとっても貴重な現金収入になっていた。月寒村の一戸当農地が豊平・手稲に次いで低いのは、この年に報国社や岡山県移民が多数入地しており、それで平均値が下がったことによる。報国社は十四年にも入っているが、十三年の月寒村の一戸当農地は一町五反である。下手稲・篠路村もそうであるが、十四、五年に大量の移住者があったところは一戸当農地が低くなっている。
 最後に一戸当収入高をみると、一〇〇円をこえているのは発寒・上手稲・札幌・丘珠の四村、及び琴似村も約一〇〇円である。札幌・丘珠村は一戸当農地も大きく、それが高収入をもたらしたとみられる。発寒・上手稲琴似村が高いのは、果樹及び養蚕がさかんなためである。これが収入につながっているとみられる。
 以上、「管内物産表」を手がかりに、十五年当時の諸村のあり方を比較してみたが、それぞれの地域的、地理的事情により異なった変化と発展の道を歩んでいたことがわかる。このころはまだ十六年以降から激しくなる〝移住ラッシュ〟の直前であった。これ以降、また諸村でもさらに大きな変動をみせるはずである。