札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第八章 札幌県と札幌

第三節 移民政策と移住の進展

三 移住の展開

 ここでは開拓使の末期から札幌県の時期における移動の動向をみてきた。幾多の迂余曲折を経ながらも移住に成功し定着をみたのは、わずかに福岡県士族の旧開墾社、山口県士族と彼らの誘導になる山口・広島県の移民、河西由造が中心となった厚別の信濃開墾くらいで、あとはみな失敗に終わっている。
 この原因は、第一に札幌近辺の開墾適地は、庚午・辛未移民により選定されてしまい、地形・地質的に悪条件の所しか残っていなかったことによる。第二は移住・開墾資金の問題である。庚午・辛未移民は官募民であり、三カ年の食料扶助などがあったのに対し、この時期の移民は移住農民給与更生規則(明治七年七月制定)により一〇円の仮家作料、一円五〇銭の種物料、若干の農具が支給されるだけであった。しかも遠い西日本の各地から窮貧の中から自費をもって移住するために、到着後の生活費や開墾資金などに余裕はなかった。長野県の移民は札幌村に移住した四戸の場合、「多少資力ヲ有スル者ニ付、他ノ移民ニ比スレハ稍佳良ナリ」(市史 第七巻三一九頁)といわれ、成功を収めたのは「資力」であった。しかし他の一般の移民は薄資であり、日雇稼で生活費を得なければならず、開墾にうちこむことができず、離村するケースが多かった。第三は指導者の問題がある。開墾社の場合は幹部が農商務省の貸与金を横領したり、簾舞の広島移民、清田の岡山移民は誘導者が帰国して連絡がなかったりなど、中心となる指導者の不手際で辛酸をなめ、解散に追いこまれるケースも多かった。また〝周旋屋〟と呼ばれた悪質な移住斡旋人がおり、詐欺まがいの移民募集も行われていた。新天地に夢をはせてきた人びとの多くは過酷な現実に打ちのめされ、せっかく得た地所を手離して市街に流れるか、周辺村落の農場小作人になるしかなかった。
 農商務省ではこの時期にあまりにも移民の悲惨事が多いので、十五年十月十一日に軽挙な移住を戒める告示を出し、十六年四月二十五日にも一六カ条にわたる注意事項を諭達していた。しかしそれでもトラブルが頻発したのは、当時デフレーションにより日本経済が不況にみまわれ、移住に活路を見出す人びとが多かったことによる。それと同時に、北海道に永住目的ではなく、〝一旗組〟と称された出稼ぎのつもりでくる人びとも多く、当初より定着志向が少なかっただけに、移動がはなはだしかったこともこの時期の移住問題としてあげられる。
 山口県大島郡平群島からは、相当数の移住者を山口村、岩見沢村に送出しているが、この大島郡の当時の状況について、『防長新聞』(明治十七年九月五日)は以下のように述べている。
本郡の人口七万を其の方里に平均すれば一方里七千余人に当れり。随分土地の割合に人民の多き処なれば、迚(とて)も田畑の耕作のみにては生活立ち行き難きが故に、男子は大工・石工・日雇・船乗等となり他の地方へ出稼し(中略)が、近来大工・石工の日雇賃の下落せしのみならず、雇う人の少なきに已むを得ず追々帰郷するもの多くなり、此が為に弥々(いよいよ)生計上の困難を招き…

 これによると大島郡は、田畑のみでは生活が成り立たず、大工・石工などの出稼ぎで生計を立てていた。ところがデフレによる不況で失職するものが多かったという。このような状況で失職した人びとが、新たな出稼ぎ先として北海道を選んだ可能性が高い。大工・石工などの技術を有している人は、数年も要する開墾よりは市街に出て技術を活かし、〝一旗〟をあげて帰郷する目論見であったと思われる。
 以上の状況は大島郡のみではなく、人口過剰と耕地不足に悩む西日本各地の出稼ぎ地帯における一般的な状況であったろう。