札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第八章 札幌県と札幌

第一節 札幌県の行政

二 北海道事業管理局の設置と札幌県の施政

 廃使置県により北海道に設置の三県は、一般府県と同様に地方行政を管掌する内務省の指揮監督下に置かれた。しかし先述したようにそれまで特殊な開拓使の管下にあったということのみならず、北方の遠隔地に位置するという地理的条件、それに大部が未開発地という社会的条件などとあいまって、他府県と共通の施政に包摂されるというわけにはいかない面があった。たとえば、十六年五月に太政官布告をもって行政の基本となる布告・布達の施行期限が定められたが、それによると布告・布達は各府県到達日数(これは別に定める)から七日を以て施行の期限となすとされ、そのうち本道三県と沖縄県に対しては、到達日数を定めず、現に県庁に到達した翌日より起算して七日との特例が明記されていた(法令全書)。しかし札幌・根室の両県令は、なお法令を人民に周知させるのは困難であるとし、所轄郡役所到達の翌日より起算して七日とすべきことを内務省を通じて上請し、それが十七年九月二十五日に「伺ノ趣特別ヲ以テ当分ノ内聞届」(同前)と認められるに至っている。
 札幌県は他の二県とも同じように、その為政者のみならず官吏全般が開拓使出身者であったので、その県政の方針や施策も、開拓使のそれと比して大きな変化がもたらされたとは考えにくい。ところで県制スタート後に、調所札幌県令が県下に緊急施行を要望した具体的施策として、以下の六案件があった。これらは本来、県令がそれぞれ関係する主務省庁に対してその実現方を要請した文書であるが、それが十五年九月に来道して三県等を巡見した山田内務卿の復命書に集録されている(内務卿山田顕義 北海道及陸羽諸県巡視復命書 公文録 内務省)。このことは山田内務卿がそれら案件を札幌県政にとっての基本的課題と受け止めたからであろう。
 その第一は農商務省へ提出したもので、旧開拓使事業の処分後に農商務省管轄となった旧札幌勧業育種場札幌物産課博物場・同製煉場の札幌県への移管要請である。その理由は三場とも未開地の開発に際して、移民に対する勧農・勧業上不可欠の施設であり、さらに育種場地は札幌区の公園予定地としてその風致も人民熟知のことであり、管下人民勧誘のためにそれらの移管を求めているものである。
 第二は工部省に提出したもので、高島郡祝津村字日和山へ灯台設置の要請である。小樽港は函館に次ぐ良港で、札幌およびその近傍の発展に果たす役割は大きく、それが開拓の進捗にともない人民移住・貨物運輸の船舶輻輳・往来頻繁となり、その航海保護のため重大な案件としている。
 第三も工部省への提出で、後志国積丹郡神威岬・北見国宗谷岬・日高国幌泉郡襟裳岬の三岬への灯台設置である。共に海産の利を上げ通商を盛んにし、また移民・貨物の運送の利便のため必要としている。
 第四は内務省へ提出のもので、札幌県庁の新築要請である。明治十二年の旧開拓使本庁舎焼失以来、旧女学校を仮庁舎としているが、庁舎としての機能に欠け、また市街中央に位置するため火災の危険性高く、そのため簿書類を旧本庁構内の石倉に運搬するなど、事務取扱上不便であると述べている。
 第五も内務省への提出で、札幌・室蘭間の鉄道敷設要請である。室蘭は東京・他府県との往復至便の港であり、本道海陸産物・幌内石炭の輸送、さらに外国貿易の運便を開くのみならず、軍事上津軽海峡の閉鎖をみても東京との気脈相通じ、その室蘭と札幌間の鉄道開通するや、札幌・石狩地方のみならず本道の事業をして盛大ならしめるであろうとしている。
 最後に第六として農商務省へ提したもので、物産消流事業の拡大を説いている。本道農業を興起するためには、その農産物の消流の道を経理することが先決で、そのため農商務省所管となった各種製造業をさらに拡充すべきとしている。それは農業の安定、製造業の振興と共に輸入防止の役割を担うものである。そしてその対象として、本道農産物を原材料とする製粉・製網・麦酒・葡萄酒・味噌醬油の製造業、さらに飼料となる牧畜業等を挙げ、すでに得失実験顕著な事業の振張と興起を要望するものであった。
 以上の調所県令の札幌県下における当面する施策は、いうならば基本的に開拓使施策を継承するものであり、さらに開拓使時代に検証あるいは必要としながら未着手の事業を選択しての、拡大・推進を意図しているものといえる。これらの案件に対し山田内務卿は、「右ニ掲載スル所ノモノハ該地方ニ在テハ何レモ緊要ナルモノニシテ、早晩之ヲ許可シ実行セザルヲ得ザルモノナリ」としながらも、しかし「国用多端ノ折柄一時ニ之ヲ許可シ其事業ニ着手セシムルハ固ヨリ容易ニ非ザル」として、結局この時点で内務卿が緊急を要するものとして採用しようとしているのは、第一の育種場等の管理と、第二の小樽港日和山灯台の二件に過ぎなかった。しかしこれにおいてすらも、日和山灯台こそ建設されて十六年十月十五日より点灯されたものの、育種場等の移管は実現をみなかった。札幌県時代の施政は終始国家の厳しい緊縮財政の下に置かれていたのである。