第五編 札幌本府の形成
第六章 教育の開始
第二節 地域と初等教育
一 初等教育の体制・内容の整備
さきに述べたように、現市域には幕末からの寺子屋等の伝統もなく、かつ開拓初期のため貧困の者が多いこともあって、就学率も高くはなかった。例を四年に移住の開始された伏見地区にとれば、七年の時点では通学はおろか自習するものもないと記され、十四年秋に至ってようやく冬期間に自習を行う夜学会が青年達によって設けられ、学校へ入学する者の出たのは実に十七年が最初であった(伏見史稿)。したがって開拓使・札幌県の教育行政も、前述の奨学告諭以来、就学の向上が一つの大きな眼目となっていた。
しかしほぼ現市域について、学区別に就学率を知り得るのは管見の範囲では明治十七年なので、ここではそれによって考察したい(表2)。
まず学区別の率では、札幌郡六番学区(白石村)が最も高く、札幌区を上回っている。逆に際立って低いのは四・五番学区である。六番学区の比率の高いのは、一つは士族移住村として学問の必要性の認識がまだ高いということもあろう。しかし一般に一村一学区の場合の就学率が高いのは、むしろ通学距離の問題が大きいからではないかと思われる。たとえば四番学区では、十七年十一月に下手稲小学校が開設されたが、生徒数は一五人と記され(手稲町史)まだ軌道にのってはいない。上手稲村から山口村までの距離を考えると、通学の困難は相当なものであったろう。 また男女別をみると、当時としては当然男子の就学率が高く、市中よりも村落部にその傾向が強い。第一・一〇学区でわずかに女子が男子の半数を上廻っているのが最高で、第九学区は三分の一にも達していない。市中の女子就学率が高いのは、単に通学距離の問題だけではなく、教育の必要性の認識が大きく関与しているのではなかろうか。 |