第五編 札幌本府の形成
第六章 教育の開始
第一節 初等教育の成立
二 村落部初等教育施設の成立と発展
ここでは記述の都合上すでに述べた士族移住村、屯田兵村にも若干ふれつつ、村落部の初等教育機関の変遷を中心に略述したい。なお、学校系統図は次編に一括掲載する。
前述のように、明治五年に白石・手稲両村に初等教育機関が設置されたが、このほか幕末に成立した篠路村では、個人宅を教場として教育が始まり、ほぼ同じ頃に平岸村でも仮小屋で教育が開始された。この状況もふまえ、開拓使は前述の奨学告諭を達した直後の五年十一月二十一日に、次のように筆算教師を任命して手当を支給し、一応各村の子弟が教育を受けられる体制を整えた。村落部は、これによってはじめて教育が行政の対象に入ったといえよう。 ついで六年九月には、これまで郷校郷学などと称していたものを教育所と統一・改称することが開拓使より布達された。八年七月の教育所の概要は表1のとおりである。
しかし距離等から、通学のむずかしい地区も少なくはなく、村の発展につれて、それぞれに教育施設を持つものが増加してきた。中には円山村のように、明治七年から村で筆算教師荻野景範をおいて教育を始めたが、八年に開拓使から手稲教育所に通学を命ぜられ、このため特に冬期間の通学難渋等を理由に、荻野に円山村筆算教師の発令方を村総代から願い出て許された例もある(開拓使公文録 道文六一五二)。このほかにも、まず私塾として出発し、のち公教育にとり込まれたものも少なくない。反面、初期には岡田潤桂の筆算所、平岸村筆算所のように、教師が他に転じたため閉鎖となった場合もあった。村落部の教育は、この時期多くを個人に依存し、それ故の不安定性も少なからず持っていたといえよう。しかし後述するように、学校の維持も官の補助金に止まらず、村の協議費、学田の設置などによりその経済的基盤も整備され、充実が図られていった。なお、十五年六月にはこれまでの教育所を学校または分校と改称することとした。 このほか、札幌村には十七年七月、請負人大岡助右衛門から校地を譲り受けて藤古小学校が設立され、また開村間もない下手稲村にも同年下手稲学校が開設された。さらに札幌区への通学が可能であったことなどから学校設置の遅れた豊平村でも、十四年七月に経王寺住職宅で私塾が開設され、十五年に移転して曦学校と称し、十七年に豊平学校が設立されるにおよんで曦学校は廃止された。 ![]() 写真-3 下手稲村学校略図(札幌県治類典 道文8939) |