札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第五章 屯田兵制の採用

第二節 琴似・山鼻兵村の建設

二 兵村の人びと

 屯田兵は希望をもとに選抜された者によって編成することになったが、その条件を屯田兵例則で一八歳以上三五歳までの身体強壮な者と定め、初め士族の貧窮者を募兵の対象とした。全国どこからでもこの条件に合えぼ応募できたのではなく、さらに地域的制約が設けられた。明治六年十一月の黒田清隆による屯田兵設置の建議には「旧館県及青森酒田宮城県等士族ノ貧窮ナル者」を想定しており、これが具体化の過程で前述の二型体案となり、旧館県すなわちすでに北海道に居住している者を主な対象とする殖民兵型と、青森、酒田(現山形)、宮城県居住者を対象とする屯田兵員にわけて、募集を行った。
 殖民兵型屯田兵に予定されたのは旧松前藩士とともに、明治以後北海道に移住した「旧仙台県ヨリ移住ノ輩、稲田邦植家来、余市有珠帰農人」(開拓使公文録 道文五七九四)である。その募集にあたり殖民方法概則を定め、開拓使函館支庁では七年五月十五日管内に布達を出して募兵したが、出願者は予想以上に少なかった。当初想定した一五〇〇戸の兵員中三分の二を、この型体で実施しようとしていた開拓使は、「管内土着ニテ屯兵希望ノ者ト雖モ、他所移転ノ義ニ至リテハ、姑息痴情ヲ以テ本意ヲ貫キ兼候輩モ不尠」(開拓使公文録 道文五八〇一)ととまどいをみせ、計画の再検討を迫られた。旧稲田家家臣を除けば、各地でかなりの募集を待つ人がいたことも事実で、札幌では上手稲白石に入植していた仙台藩片倉家中の家族に一〇〇人をこす待機者がいたというが、挙家移住を条件とする変更によって応募が減少したのであろう。
 そこで青森酒田宮城三県からの屯田兵員募集が急務となり安田定則幹事の強い意向から、太政官の裁可を得ぬまま、一県六二人の募兵協力を三県令へ内達したのは、七年もおしせまった十二月二十八日、翌一月十二日太政官はこれを追認する。青森県では旧会津(斗南)藩士を対象とし、宮城酒田を募集地としたのは、戊辰戦争に敗戦し生活困窮した士族問題の解決をめざしたからであろう。
 開拓使は初回の屯田兵員移住を八年春の早い時期に実現すべく、三県内の希望とりまとめを二月末日までに依頼した。しかし住民への趣旨説明を始めたのは一月二十日過ぎであるから、期間がきわめて短い。心配した開拓使が応募状況を照会したところ、二月十五日付宮城県内ゼロ、青森県内は積雪のため三月まで延期との返事である。宮城県では締切日の二月二十八日になってもゼロ応募にかわりなかった。こうした事態は殖民兵型募集の経験から一部で予測されており、三月三日士族に限らず平民をも屯田兵員に編入する決定をして、三県へ再募を依頼、さらに伊達市に入植していた仙台藩亘理家中から郷里にいる該当しそうな人物を教えてもらい、その名簿を宮城県へ送って個々に説得することとし、開拓使の農業生徒であった同郷の斉藤常成を派遣して応募を促した。
 四月中旬から、宮城県へは開拓使の家村、安田、篠崎等が、酒田青森両県へは門松、板鼻、久保田等がそれぞれ医師をともない出張し、応募者の資格や身体検査を行い屯田兵員の決定をみた。こうして青森県(旧会津藩出身者)から五〇人、酒田県から一〇人が一隊をなして、八年五月十七日家族と共に琴似に到着した(この人数について諸資料で差がある。今は開拓使公文録 道文五八一七の調整数による)。宮城県からの九一人は四日後の二十一日に入地し三県からの初回移住が完了した。これに加えて殖民兵型屯田兵として道内応募した内、琴似移住と決した者は個別家族ごとに五月三十日までに入地し、三県出身者の中で到着後分家独立した屯田兵員を加え、琴似兵村が発足したのである。
 ひきつづき第二次募兵を行った。琴似兵村の不充足兵四〇人と新設予定の山鼻兵村へ移す二四〇人、計二八〇人を募ることになる。第一次募兵では三県予定数の八割強しか充足できなかったので、今次は応募対象を置賜(おきたま)(現山形県米沢地方)、岩手、秋田の三県にも広げ、前回の三県に加え六県とした。とはいえ宮城、青森、酒田県で一県から九三人の募集を布達していたので、二八〇人中ここで二七九人を期待したのであり、前回に続いてこの三県が主たる対象地域であったことに変わりはない。八月末までに希望を各県でとりまとめ、秋には北海道移住を実現すべく、急ピッチの準備を進めたにもかかわらず、入居する兵屋建築が進まず、移住とともに給与する家具農具の準備に手間どり、さらに経費不足をきたして一屯田兵につき家族数を四人以内に押さえ、扶助費用の節減をはかることにした。そのため募集を一時中断し、新方針による募集再開をみたのは八月十七日で、九年春移住を目標とすることになった。
 資格審査と身体検査のため開拓使は家村、千早、前島等を各県に派遣し、地元医師による検診を経て第二次屯田兵員を決めた。その結果は青森県九九人、宮城県九三人、酒田(鶴岡と改称)県五人で、主要三県が一九七人を占めるとはいえ、期待数の七割に過ぎない。追加三県は秋田県二一人、岩手県二〇人、置賜県〇で、合計四一人が主要三県の不足数を補うがまだ充足しなかった。こうした事態を予測した開拓使は伊達市に移住していた仙台藩亘理家中の内、自費移住で分家可能な家族の山鼻再移住を働きかけ、二九人が屯田兵に加わることになり、同年秋にさらに補欠招募した。彼らは単に不足数を補うだけでなく、開墾営農の経験をかわれ指導的役割を果たすことを期待されたのであろう(これら人数は諸資料で差がある。今は開拓使公文録 道文五八四二によった)。
 第二次募兵は九年五月二十九日までに家族とともに到着し、琴似兵村琴似村へ三人、発寒村へ三二人が配置され、あとは山鼻兵村に配置された。これにより琴似兵村(第一中隊)は二四〇人の編成を完了したが、山鼻兵村(第二中隊)では不充足だったため、家族の中から適格者を分家させたり、補欠招募者をもって補充につとめ、戸籍簿によれば二四〇番までの編成完了は明治十一年であったと考えられる。こうしたわずかな不充足分はあったにしても、山鼻兵村は九年五月末に発足し、両兵村をもって第一大隊を編成したのである。これに続く募兵は、十一年江別太への一〇人の移住までなかったが、この間補欠招募を行ったようで、第一大隊附属江別分隊の発足は補欠完了と期を同じくして実施したものであろう。