札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第五章 屯田兵制の採用

第一節 屯田兵制度の成立

二 用地の選定

 札幌のどこを移住地にし家屋を建築するかは、かなり早い時期から了解事項としてあったらしい。おそらく三年十一月の計画に関わる調査なのだろう、翌四年「屯田兵移住場所壱ヶ所」の選定がなされた。それにたずさわった高見沢権之丞によると「明治四年未ノ二月十四日、権之丞見立地御安内致、コトニ民家地面御見分有之、岩村判官様、西村権監事様、土井権監事様、永井少主典様、兼子様御見分ニテ、右村地相定」(札縨御開拓記)まったという。ただ屯田兵移住場所が「千年道」筋、すなわち現国道三六号線沿いの月寒辺であった可能性も否定できない。
 同じ四年中にもう一つの出来事がある。桐野利秋少将の兵備視察だが、九月六日「村地御見分ニ付、権之丞御安内ニ被仰付、マクマナ井ヨリ川西炭小屋ニテ御弁当、同七日山岸ヨリコトニ迄御安内致ス」(同前)とある。川西とは豊平川の西岸すなわち山鼻の南部のことで、山岸とは藻岩山麓を指すのだろうから、鎮台を置くとか屯田兵を移すという計画が論じられる時には、その予定地として真駒内、山鼻、琴似、千歳道筋があげられ了解事項になっていたと考えられる。
 この中からまず琴似が最初の移住地に決定をみたのは七年六、七月頃と思われる。それよりも早く、在京幹部はここを予定し、その意を受けて村橋久成大主典が現地調査のため四月十一日札幌に到着した。ところが現地では千歳道筋(現月寒地区)を適地として選定していた。責任者である松本十郎大判官は後日の回想で、「屯田兵ハ、専以事於開墾、益可不与広圃哉、夫然而宅地則宅地其耕地更与、共同地決衆之非所望也、寧不如卜肥沃壙野、与之為勝也」と考えたと述べ、月寒は「高燥而有水利、又不遠札幌也、将校之諸氏亦非有往復之便哉」(松本系譜)と判断、月寒に一家屋ごと五〇〇〇坪の農耕地を付属する区画を測設し、さらに練兵場や開墾地を六万坪選定測量したという。
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写真-3 最初の移住地琴似 兵屋が完成し入居を待つ(北大図)

 これを行ったのが札幌本庁の職員であったか村橋であったかは定かでないが、結果として村橋は東京の命にそわなかったとして任務を免ぜられ、新たに地所選定のため安田定則大鳥圭介等が派遣されてきた。これはH・ケプロンの北海道視察と一体のものであったらしく、黒田ら在京幹部の発寒川沿岸優先の主張を通すための処置ではなかっただろうか。ケプロンは札幌で屯田移住予定地を視察し、そこを好適地と見なし日記に次のように書留めている。
 (一八七四年)六月六日
 今日馬で出掛け、正規に編成される屯田兵の入る土地を調べに行く。屯田兵は、規則的な訓練を受け、同時に土地を開き自分たちの食糧を作ることになっている。土や木や水であろうが、またはその位置であろうが、これほど見事というか、あるいは目的にかなった場所はないだろう。もしこれが成功しなければ、責めは組織か管理に帰すべきである。
(西島照男訳 蝦夷と江戸)

 彼の視察した場所がどこであったか記載はないが、以後の経過からして発寒川沿岸を中心にしていたことは間違いなく、ケプロンのお墨付を得て、安田等はここを正式な移住地と決定したのであろう。さらに両者による調査の結果、小樽と室蘭が当面の移住候補地からはずされ、一大隊を構成するもう一つの移住地が、同じく札幌周辺に求められることになった。かくして山鼻が二つ目の目的地として陽の目を見たのである。ここは札幌市街に接しすでに民有地があり、西北部は牧場用地だったため、それらの編入に少なからぬ苦労がともなった。