札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第四章 周辺村落の展開と農業

第一節 村落の成立と拡充

二 人口と移住動態

 開拓使では移民や村落の現況を把握する目的で、各村の調査をおこなっている。現在残っているのは、①『札幌区市街各村之開拓ノ顚末』(明治十年調ノ写、伊東正三資料 函図)、②『移民履歴調』(十一年、市史 第七巻)の二点である。
 ①は諸村の場合、(1)移民開拓(地所)ノ顚末、(2)土地ノ広狭・地味ノ厚薄、(3)水陸運輸之便否、(4)村民将来着産ノ目途が記されている。②も同じ項目で、内容も②は①を引き継ぎ写したものとなっている。『開拓使事業報告』(第二編)の「移民顚末」は、①②をもとにして編修されている。それ故、三種の史料の中でもっとも古い①にオリジナリティがあるといえる。
 前記の四項目の中でやはり問題となるのは(4)であろう。各村では農業一途の見込を述べているが、かたわら養蚕製麻・製網・製炭などを「着産の目途」としており、生計の補助となる現金収入・副業をもたなければ、〝定着〟の難しかった状況であることがわかる。なかには発寒村のように、「農事ヲ閣(と)シ他業ヲ営む者アリ[漁猟場出稼等アリ]。如何ントナレハ貧窶ニシテ目今ノ糊口ニ困(くるし)ミ、秋収ヲ待ツ能ハサル者多シ」とされ、入植後数年を経ても農業で自立できない人々も多いことが報告されている。
 はたして庚午、辛未移民はどの程度各村に定着していったのだろうか。いま定着度をはかるために、四年に作成された篠路、丘珠、琴似、平岸、月寒の各村の人別帳(道文三一三~三一八)、白石村の戸数調(道文三二一)及び『奥羽盛衰見聞誌』所収の入植配置図などを、十二年の『地価創定請書』(市史 第七巻)と比較して、四年入植者が十二年までにどのくらい居住を続け、〝定着〟していたのかを調べてみよう。
 篠路村は四年に明治以前から居住する在来二八戸、三、四年に移住した新移が一三戸で人員は一四七人とされている。十二年になると在来八人、新移一人がみえなくなる。在来の離村者の多いことが目につく。これは食料などを給与されるかわりに定着を義務付けられた新移にくらべ、制約のない在来は移動が自由であったためとみられる。しかし新移でも移動の多い村もある。琴似村がそうで、琴似村は四年に在来四戸(奥書の統計は六戸)、新移四六戸の合計一八二人であった。琴似村山鼻村と並び地価創定が遅れ十五年に行われたが、十五年に至り在来一戸、新移一七戸がみえない。琴似村の新移は辛未一ノ村をつくる際に、北海道へ出稼ぎに来ていた人々が募移民に編入されたものであった。そのためかもとより定着志向をもたず、さらには次の丘珠、月寒村のように同郷者の集団でもないために、村落の共同規制も少なかった。この結果が新移の大量の離村を生んだとみられる。
 つぎに新移のみの農民で形成された丘珠、月寒村をみると、まず丘珠村は四年に三〇戸一〇六人がいた。十二年に及んでも一人のみがみえないだけで、定着度ははるかに高い。月寒村をみると、四年には四三戸一七七人がいたが、十二年になってもやはりわずか一人が不明なだけである。丘珠村は山形県、月寒村は岩手県の同郷者から形成されていただけに、〝共同体意識〟も強く、離村者をつなぎとめる規制力がはたらいていたことがわかる。
 今度は士族層の移住で開拓された平岸、白石村をみてみよう。平岸村は四年に六三戸二〇四人がいた。六三戸のうち四割近くが士族であった。十二年に至り一四人がみえなくなっている。このうち確実に士族(伊達家旧臣)であるのは五人であるが、実数はもっと多いであろう。一四人のうち六人は、すでに六年の『検地野帳』にみえず離村は早かった。
 白石村の場合をみると、四年の「戸数調」には戸籍筆頭者が七七人いる。このうち、十二年までに二二人が主に六年中に上白石村に移り、二〇人が不明となる。一方、『奥羽盛衰見聞誌』には一一六人の記載がある。これからみると上白石村への転住、不明が各二七人いる。上白石村への転住は〝定着〟と同じであるが、不明の二七人は多いといわざるを得ない。『白石藩移住後継者団体資料』(道開)には、以上のうち出奔が四人、帰郷が五人確認できる。白石村からは開拓使の官吏、巡査、医術修業生などに応募する者が多く、士族の学識が利用されることが多く、札幌市街の転籍もままみられる。しかし不明者が多いのは、平岸村と同様に別な理由が考えられる。
 かつて「北地跋渉」を志し、かたい紐帯で結ばれていたはずの士族たちに、なぜ離村者が多かったのであろうか。その一番の原因は、やはり、〝百姓〟になり切れなかったからである。彼らは戊辰戦争の敗北により止むなく帰農、北地跋渉というコースを歩まざるを得なかったが、真から志しての〝百姓〟でもなく、北地跋渉ともいえなかった。特に青年層を中心とした多数の人々が、〝仕官〟の機会をねらっていたはずである。また〝百姓〟に絶え難い思いをもつ人は、出奔という強行手段や制止をふり切っての帰郷を敢行したのであろう。
 以上のように同じ札幌の周辺村で、三、四年に移住により形成された村でも、在来と新移、同郷村と非同郷村、農民層と士族層では定着の度合に大きな懸隔が生じていた。