札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第三章 殖産興業の扶植

第五節 官業時代の商業

二 明治十年代の商況

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 当時の市内繁華街の動きを知りえる手がかりになる一つに、十年から十二年にかけて調査された『地価創定請書』(市史 第七巻)がある。それによると市内各条丁目の地価は表17の通りである。当時南一条西一丁目が最高の商業地で、現在の南一条西四丁目に相当する地域であった。当時南一条西一丁目の南東角にあった旅籠秋田屋には〓・新田貞治小間物雑貨の商いをしていた。新田は当時開拓使に筆墨などを納め、お茶などを売る用命を受けていた。〓今井藤七が五年五月函館からここへ来た。そして新田の世話で、秋田屋の一室で並んで小間物雑貨の店を持った。今井は七年には同じ南一条西一丁目の西北角に呉服店を開いた。なお新田の店にいた後藤半七は新田の西並びに、〓岡田佐助は同じ通りの西三丁目にそれぞれ雑貨店を開いた。
表-17 各条丁目地価一覧 (100坪単価)
大通南1条南2条南3条南4条南5条
西1丁目45円180円45円45円45円10円
西2丁目40 85 70 55 70 18
西3丁目40 85 70 55 70 70
西4丁目40 85 70 55 70 70
西5丁目18 70 70 55 18 18
西6丁目18 70 40 18 18 18
西7丁目10 40 40 18 10
西8丁目10 40 40 10
東1丁目70 55 55 55 18
東2丁目45 55 55 55 18
東3丁目25 25 55 55 55
1.南1西1の180円は南1条通に面した部分だけで,他は45円。2.『地価創定請書』より作成。

 用達木村伝六は、同じ南一西一の秋田屋の北向角の旅籠〓清水屋の所で雑貨を商っていた。しかし『地価創定請書』では、姿を消し、十二、三年頃に三井銀行が同地を買収し、十五年札幌支店を南三条からこの地へ移している。
 官営工場の生産物の取扱い並びにそれらの工場の払下げを受けた商人も多くが、この渡島通(南一条通)に店を持つ人たちであった。この通りの商業人は、またそれだけ財力を蓄えていた。したがって南一条通の西一~四丁目間に店を持つことは、在住商人の願望ともなってきた。
 もっとも西四丁目通が一丁目通より繁栄を見せ、地価が高騰してくる原因は次の三点にある。第一に、十三年に札幌駅前通となったことである。第二に西三丁目の女学校跡地は、後に開拓使庁札幌県庁を経て北海道庁の庁舎であったが、二十一年道庁庁舎が現位置に新築移転して開放されたことである。第三に二十五年五月の大火が市街地を襲ったことである。

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写真-10 南1条西3丁目の荒物店などの風景(明治5年、北大図)
 
三枝木家の荒物屋の様子や加藤家の料理屋の構え、米谷家の旅籠屋の構えがよくわかる。また、小田部家も本来旅籠屋であるが荒物屋のようにみえる。宿泊人が軒先を借りているのだろうか。5年中の所有者名は『地価創定請書』と大村耕太郎資料『戸籍番号帳 全』、職業は『市中商惣高』により推定した。なお、根守定夫は五年の移住直後は開拓使十五等出仕である。

 南二条も一条に続く繁華街であった。『地価創定請書』では、西二~五丁目は一〇〇坪七〇円である。また南四条の廓街薄野も同じ七〇円で、これに挟まれる南三条はやや低く、西二~四丁目は五五円である。南二条と南三条を跨いで、西五丁目には一丁区画に下級の官員の宿舎五〇戸ほどが建っていた。狸小路という名の起こりは、これらの人びとを相手にか、薄野へ向かう人びとを足止めして相手にしてか、「南二条と三条の仲小路西三丁目に、十年頃仙北屋という家号で丸太で門構えして御料理の額行灯を出し、門柱へは一方へ〈初音ずし〉、一方へは〈生そば〉という暖簾をかけ、私娼四、五人を置いたのが始まりか、これ一軒の外別に怪しい家もなかった」と深谷鉄三郎は証言する。当時高級料亭には、東京庵(南二西四)、幾代(南三西四)があった。狸小路西二丁目は、はじめ安津満小路といわれた。そのわけは、はじめ松本房吉が芝居小屋松本座を設けたのがうまく行かなかった。それで芝居小屋は借金のために石川正蔵の手に渡った。石川は一時安津満座として経営した。それが繁盛したため安津満小路となったという。狸小路初期の風物である(さっぽろ昔話)。
 西一丁目以東は、西二丁目以西と地区の区画割を異にしている。仲通は南北割となっている。そのため西二丁目以西と人の流れを異にしている。創成川を挟んで東二、三丁目通が交通の主流になっていた。北海道毎日新聞明治三十年二月二十日付の記事に「開拓使の当時は東一丁目以東二丁目、三丁目より千歳街道に通じ、西は南一条より銭函街道即ち円山村に抵るの街衢最も繁盛を極め、殊に百貨の運送悉く馬牛の負牽に托したるの時に在りては銭函より千歳に抵る街道は馬往来織るが如ならし」とある。このように、当時東二、三丁目は千歳街道より銭函街道へ、そして札幌元村、篠路方面へ抜ける街道筋に当たって、南一条通にも増して馬車の往来が激しかった。しかも開拓使工作所の南地区には、南一、二条東三丁目に請負人中川源左衛門の作業場、南四条西一丁目に請負人大岡助右衛門の工事作業場が与えられていた。したがって東地区にはこれら職方工夫等の居住が多かった。そのために建築工作諸道具の製作者の店を開くものも多かった。開拓使は八年八月職工を東京に募り、農馬具製造所東創成町(北一東一)に設置した。一方黒田長官は、十一年ロシアより馬車、馬橇及び馬四頭を求め、三人のロシア人を雇って工業局で諸職人にその製造法を伝授させた。「その時直伝をうけて、今日も馬車橇の製造を専業にしている人は南一条東二丁目、〓越竹次郎」(さっぽろ昔話)とあるように、この頃この地区に馬車や馬橇など輸送器具の製作が根づいてきていた。