札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第三章 殖産興業の扶植

第二節 官園等の設置と山林政策

一 官園、牧場、その他勧業施設

 明治四年(一八七一)九月、ケプロン来日直後の献策によって東京に官園三カ所が設置された。それは「異邦の家畜、草木、果実の新種を伝播する生息検査の為の中継所として」(開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文)設けられたものであるが、北海道において東京官園の業務と連動する施設としてまず、幕末以来欧米農法の導入の先べんをつけたガルトネル農場の跡地を利用した七重開墾場(明治三年設置。八年農業試験場、九年勧業課試験場などと改称。通称七重官園)があげられる。ここには東京官園で洋式農法の訓練をうけた農業現術生徒が送りこまれ、同時に持ちこまれた洋種の家畜、果樹、穀菜類の試養・栽培がさかんに行われた。本園は農業試験場としての規模の大きさとともに、製紙所、製煉所等の加工施設もあわせて経営した多角性に特徴があった。
 東京、七重両官園の設置とほとんど同時期に札幌官園も誕生した。『開拓使事業報告原稿』(道文七一八二)では、札幌官園を穀菜、果樹、林木など「樹芸」にかかわる試験施設の総称としているが、通常は偕楽園と同じ土地に設けられた試験地を指す。本園は明治四年、のちの札幌区北六条の西方において三六〇〇坪を開墾し、試験場と称して最初数種類の穀菜(米国種の小麦、裸麦、甜菜、甘藍、玉葱など)を試植したのに由来する。
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写真-2 札幌官園の人参畑(北大図)

 名称は御手作場、一号園、官園、育種場などいろいろあるが、官園については六年六月開拓使開墾局(ママ)から正副戸長あてに官園番号について通達があり、その中で「第一官園 偕楽園通新墾地 第二官園 偕楽園御手作畑」と記されている。上記第一官園の偕楽園の脇に「空地」と記され、これは空知通と思われる(市在諸達留)。また同年二月の生産係・開墾係の伺書の中に次の記事がある。
(前略)是迄地味御試験之タメ御手作相成候各開墾地所之内、呱哇芋稲作之外雑穀諸菜ハ都テ本年ヨリ御手作御見合之方可然歟、就テハ右両作之余分開墾地之儀ハ、其最寄百姓之内エ御預ケ地相成候方御手数モ相減可申奉存候、因之在来開墾地ニ付見込別紙之通相伺候也
 癸酉二月
別紙
 琴似村開墾地
  凡一丁二反部
   此分教師方蒔付物モ有之候義ニ付本年ヨリ都テ教師方エ引渡し可申候
 元村養豚所脇開墾地
  凡一丁一反部余
   此分水田二反部位、其余ハ豚食料呱哇芋植付候筈
 苗穂村開墾地弐ケ所
  凡二丁五反部
   此分前同断、豚食料呱哇芋植付候筈
 丘珠村
  凡二丁部
此分程遠ニテ御手数モ相増候義ニ付、最寄百姓エ御貸渡、猶地力相増候様可申諭、尤応之者無之候節ハ手数無之、荏又ハ麻之類蒔付可申筈
(明治六年 部類抄録一五 道図)

 これによれば、厳密な意味の試験地ではないが、御手作という旧幕以来の呼称を付けられた開拓使直営の試作場が偕楽園以外の地にもあったことがわかる。ただ最初の琴似開墾地は面積が三六〇〇坪であり、偕楽園の北方が琴似村に接していることなどからすれば、札幌官園である可能性は高い。しかしその試験内容は明らかでないし、十分なものであったとも思われない。
 六年六月、黒田次官の命によってケプロンは、七重、札幌両官園の「畑場試験」指導その他の用務をもって渡道するが、その指令書には「七重札幌両園共差向キ日用ニ供スヘキ穀菓畜類ヲ仕立申度、地味ヲ相シ適宜ノ物品等可然御指揮有之度事」と見える。つまり日常の生活にすぐ役立つ穀菜、果樹、家畜等の試植、試養を望んでいた。そしてそのための「適宜の物品等」の調達等についても言及している。これらのことが実行されて六年以降に官園の充実がなされたと思われる。
 そのうえ、同指令書には次のような広く農林業にわたる項目も付されていた。
一札幌管内御巡回、牧畜及耕種ニ宜敷地所等御検察有之度事
一山林有用ノ材ヲ検査シ、運輸ノ便地御鑒定有之度事
(同前)

 『開拓使事業報告』等によれば、六年中、東京官園(東京青山試験場)から外国種の林檎(りんご)・梨(なし)・桃(もも)・李(すもも)・桜桃(おうとう)(さくらんぼう)・葡萄(ぶどう)などの苗若干を移植し、熊谷県榛沢郡から陸稲種子一五石を購入して試植した。蔬菜はトマト・キャベッの苗が送付されており、その他内外種を毎年試播し成長もよかったようである。六年五月測定の「北海道札幌之図」には、偕楽園の東北方向へかなりの地積が菜園と記されて描かれている。
 七年九月、官園中に牧場を仮設し、七重官園、新冠牧場、東京官園から、同年及び翌八年中に和洋の牛・馬・羊多数を送りこみ、牧畜の面での基盤作りも始めている。
 八年六月、札幌本庁では余市・静内・浦河の各出張所にあて農業現術修業の希望者をつのった。その結果農業修業人三〇人が官園において一〇カ月間、給料を得て西洋農具の使用その他、牧畜・耕耘の業を学んだのである。卒業生は帰郷後、村民へ習得した技術を伝習するという仕組であった。
 このように札幌官園も一応の基盤を築いたかに見えたが、九年九月の本支庁あて達(これは全三〇条のきめ細かな勧業政策上の注意事項である)の中で次のように評価され、主要部分が札幌農学校へ移管されて大幅な地積削減となった。
第九條 勧業課所轄官園ノ義ハ全道農業ノ模範ニ供シ人民誘導ノ為設立セシニ実際施行ノ方法充分ナラス。加ルニ従来ノ慣習ニ拘泥セルヲ以、到底最初ノ目的ヲ達スル能ハサルノ恐アリ。故ニ今般更ニ札幌農学校ニ隷属セシメタリ。爾後教師「クラルク」ヲシテ農業的切ノ方法ヲ設ケ、正則ヲ以旧習ヲ排除シ、確乎不抜ノ標準ヲ立シメ、之ヲ全道ニ拡充民産興隆ノ基本ヲ固クスヘシ(後略)。
(布令類聚)

 これによって、札幌農学校は三〇万四五〇〇坪の土地と牛馬、農具諸器械を得て農黌園を設置したのである。このため官園はいったん縮小したが、十二年五月札幌育種場と改称し、接近の土地の開墾と施設の充実につとめ、地積は一三万三九〇〇坪余に回復した。内外多数の植物を栽培して風土の適否を試験し、その結果を広告し、あるいは種子、苗木等を払い下げるなどして農事の一般への普及につとめた。札幌官園はこのように穀菜、花卉、樹木、家畜など農・牧・林業万般にわたる試験と普及の北海道新開地における策源地であった。そしてその役割はしだいに次の諸施設へ分割されていったのである。