第五編 札幌本府の形成
第二章 開拓使本庁と札幌
第四節 札幌都市計画の進展
三 岩村判官の札幌本府建設経営
明治五年になると、札幌の建設は本庁舎の建設、病院など諸施設の建設、札幌本道の開削などと本格化する。『開拓使事業報告』から判明する五、六年中に建築された建物は、表7のとおりである。また五年の建築工事については、『市史』第七巻(一二二頁以降)に本庁・学校・病院・教師館などの建設に関する史料が掲載されている(開拓使公文録 道文五七三〇など)。それらの史料から、その状況について判明する部分を拾いみると以下のようになる。
実際に建築した建物は、本庁、学校、病院、「ケフロンメシヨロ」住居、教師五人住居三棟、役邸一〇軒、次官役邸、仮黴毒院、旅籠屋、邏卒本営などということになる。そして五年になると、お雇い外国人の影響と思われるが西洋風の建物にする意向があらわれる。 建設の実行状況は、七月半ば頃には「メシヨロクラク」住居は十月初旬竣工予定、「ケフロン」住居、外国人五人住居、本庁、学校などは五年中には落成するが、土台石切取と運送が不便なためいつとは確定できない状況となっている。次官役邸は本年中に落成見込ができれば取りかかる。仮黴毒院、旅籠屋、邏卒本営は八月中落成の見込になっている(開拓使公文録 道文五七三〇)。 この工事の遅れには二つの原因が考えられる。一つには、札幌詰と東京詰の本府建設についての認識の違いが考えられる。五年四月札幌から東京へ、諸職人たちの募集のために岩瀬権大主典たちを送り込んだ。さらに本庁他の建築費用を見積り東京に報告した。岩村判官は、必要な施設の工事を同時に進行させようとしたらしい。そのため諸職人などが膨大に必要になったものと思われる。ところが東京出張所では、要求してきた諸職人を減らして札幌へ送り込んだ。おそらく東京側は、建築物に緩急の差をつけて工事を進行させることを考えたのである。ところが本府経営のために工事を急ぐ岩村判官は、全般的に建設工事を実施しようとした。そのため職人たちのやりくりに支障が生じ、工事が遅れることになった。それが目立ってきた時に岩村判官たちは、「最初岩瀬権大主典上京之頃、営繕向も御多端ニ可渉見込ヲ以、人数為取調、出京之処、於御地今年営繕之順序御取究、随テ諸職人も相減し御雇越之処、案外之儀ハ、土台石夥敷御入用ニテ、為其諸職働之順序も相違致し」という状態で、手空きの諸職人が多くなり不満が出てきたので、職人たちを削減したことを報告している(同前)。 二つには、石材の不足が工事の進行を遅らせたことである。ケプロンたちお雇外国人たちの要望で、その住居などを西洋形の建築物にしたため、石畳状の石が必要になった。五年三月頃円山村に建築用に使えそうな石材が発見された(市中諸願綴込 北大図)。それを見込んで西洋建築をしようとした。ところが、「兼テ取極め置き候石山、今般之造営向き被用候畳石無之、夫故壱弐棟迚モ、当年中落成之目途無之」という状態になってしまった(開拓使公文録 道文五七三〇)。 岩村判官は、石不足のため仕事の遅れている教師館の工事の順序を決定して欲しい旨、黒田次官へ申し入れた。それに対し黒田次官は、土台石は本庁だけにして、他の教師宅など全て建物は木製にするように指令した(同前)。結局五年中の本庁の建築はこのまま中断し、六年七月から再度始められたようである。しかしその時には、他の建築物も含めて石張りは取り止められて板張りになった(遠藤明久 開拓使営繕事業の研究)。 |