札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第一章 札幌本府の建設

第四節 初期移民と村落の形成

三 辛未移民の入植

 東北地方で募集した移民が到着するのは四月である。陸中の岩手県移民は三班に分かれて出発したので、陸中一番組(一番立)などと当初呼ぼれていた。移民が到着した日付は、『仕上ケ御勘定帳』では、以下のようになっている。
 ①陸中一番組(宮野勝蔵組)       篠路村    四月八日到着   七七人(五月六六人)
 ②陸中二番組(岩井沢七兵衛組)     月寒村    四月七日到着  一四四人(一七一人)
 ③陸中三番組(一方井茂内鈴木末治組) 花畔・円山村 四月八日到着   六五人(一方井組四九人)
 ④陸前組(黒田三郎右衛門組)      対雁村    四月六日到着   九四人(九〇人)
 ⑤麻畑(伊達将一郎旧臣ほか)      平岸村    二月二十五日到着 二一人
                           三月二十日到着 一三三人
                           四月二日到着   三三人
 ①は六月八六人、七月四九人、八月以降は四八人と人員が異動している。すべてが篠路村に入植できず、他に振り替えられたようだ。この集団は篠路村の十軒に入植した旧士族である。②は問題なく月寒村に入植し、九月以降は一七九人となる(移住の時日・経路については『豊平町史』所載の岡田幸助の回想を参照)。③は七月以降史料からみえなくなる。当初円山村の予定であったが変更になったようで、円山村には五戸のみが繰入れられた(市史 第七巻二四五頁)。組頭一方井茂内は、のちに花畔村の村役をつとめており、③の多くは花畔村に入植したとみられる。『開拓使事業報告』には、岩手郡から三九戸一二九人となっているが、花畔村は史料では六月以降みえ、八二人(八月以降)となっている。

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写真-13 陸中二番組が入植した月寒村の絵図(新道出来方絵図 北大図)

 ④の陸前組は陸前国登米県(現宮城県)馬場谷地村(現涌谷町)出身で、二四戸が移住に応募した。一団は三月十一日出発し、十六日閉伊郡鍬ケ崎到着、二十五日同所を庚午丸にて出航、二十九日小樽着、四月四日に小樽をたち銭函に一泊して六日に札幌に到着する。二十五日余りの長旅であった。到着後しばらく薄野あたりの仮小屋に収容され、六月十七日に二一戸が対雁村、三戸が生振村に入地した(札幌区市街各村之開拓ノ顚末)。
 涌谷ではすでに三年二月に庚午移民の募集をおこなったことがあった。それは松岡修(宗九郎)使掌による募集で、三三戸の応募を得ている。ところが実際の移住にまで至らず、再度四年に広川大主典が募集したところ、「今般移住願出」はわずか六戸に過ぎず、残りは「今度ハ見合」「生衛(行方)不知」などで、新たに募集をし直して集めたものだった。
 三年の応募者の願書が十数通分残っている(明治三年同四年書類 道文三二六)。それをみると帰農及び帰農召使・帰農家中がみられる。帰農は涌谷領主亘理(わたり)元太郎が禄を失ったために、家臣が農民になった者である。この中に清次郎がみられるが、後に雁来村副戸長となる伊藤清次郎であろう。帰農召使は士家に仕えていた召使、帰農家中は中男などの奉公人であろう。この他、農民や職人なども一部含んでいるかもしれないが、涌谷の場合、士族の没落が移住に結び付いていたことが指摘できる。
 ④は当初発寒村に入地予定であったらしく、『仕上ケ御勘定帳』に五月は発寒村となっているが、六月の塩噌料から対雁人員とされている。六月十七日に対雁村に入地したことと対応している。黒田三郎右衛門は、『細大日誌』(市史 第六巻九〇八頁)、『札幌郡対雁村人別調』(道文三二〇)で居住が確認できる。この『人別調』には四年に二二戸八六人が記載されている。なお六年のうち一九戸は雁来村に転住し、三戸は生振村に入る。黒田三郎右衛門も生振村に移ったようだが、その後再び雁来村に戻っている。