札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第一章 札幌本府の建設

第四節 初期移民と村落の形成

三 辛未移民の入植

 明治四年は干支でいうと辛未の年である。三年の庚午移民にならい、ここでも四年の移民について辛未移民と称することにする。辛未移民の移住計画については、三年七月に開拓使では札幌へ五〇〇軒、一五〇〇人を五カ所に入植するプランを作成した(市史第七巻五一頁以下)。十月の予算では、札幌へ二五〇戸、東地の幌泉外三郡へ一二五戸とプランが変更されている(同前七三頁)が、十二月の「札幌表御用取扱向等伺書」では、三七五戸のうち、東地の五〇戸を除いた三二五戸を札幌にあて、内訳は辛未村(後述)の五〇戸、松前商人の二〇戸、伊達将一郎の旧家臣(平岸村へ入植)五〇戸、残り二〇五戸は東北地方より募集することになった(同前八七頁)。
 四年の移民の募集は、三年十一月に平戸・大村・島原・米沢・大泉の各藩、長崎・山形・盛岡・江差の各県に通達された。
 東北地方の諸藩・県をまわり、もっぱら移民募集にあたったのは広川信義大主典である。広川は四年一月十八日に、一万八〇〇〇両をもって函館を出発した(東久世通禧日録)。広川が盛岡でまとめた二月二十八日付の報告(市史 第七巻一八九頁)によると、広川は二月五日に盛岡に到着している。ここで「移民并農具等之引合相済」ませた後、十日には水沢に入った。水沢では開拓使支配となっていた伊達将一郎の旧臣の選定・除籍につき胆沢県(いざわけん)とかけあい、十六日には涌谷(わくや)に至る。ここでも一八戸の移住志願者の徴募をおこなった。その後再び水沢に戻り、伊達将一郎旧臣の出発準備を整え、盛岡へと引き返している。
 広川は盛岡涌谷にて、「農夫凡百戸程は募移出来可申見込」と報告しており、ここでの移民募集は順調であったようである。またこれからは、仙台、山形、米沢に向かい、四月中旬には新潟へ到着の予定であると述べている。広川の募集や手続による岩手・宮城県内の移民は次の通りであった(県名は当時のまま)。
  ①盛岡県岩手郡 四三戸一八五人
  ② 同     三九戸一二九人
  ③登米県遠田郡 二四戸
  ④仙台県宮城郡 二九戸一二四人
  ⑤胆沢県水沢の伊達将一郎旧家臣ほか
 ①は月寒村、②は花畔村(ばんなぐろむら)、③は対雁村、④は生振村(おやふるむら)、⑤は平岸村へそれぞれ移住する。①~④で総計一三五戸である(数値は『開拓使事業報告』第二編―勧農による。①の出身地は『豊平町史』參照)。
 広川の山形、米沢、新潟での募集は順調にいかなかったようである。「十文字龍助日記」四年六月四日条(市史 第六巻七七五頁)に、「広川大主典山形米沢ニて移民不弁酒田ニて一戸、幸に陸前松嶋高城の者共の越後迄立越しを送越せしと」とあり、山形・米沢では一戸も募集できず、わずかに酒田では一戸のみという状況であった。ただ、松島・高城(ともに現松島町)では応募者があり、こちらは越後(新潟)まで引率し、越後から送ったという。新潟での募集状況もかんばしくなく、東久世通禧の『日録』(四年四月十三日条)に、「広川大主典新潟県にて移民七拾戸計不足旨申越候へ共、数不揃にても不苦旨申送」と記し、予定数に七〇戸ほど不足のことが伝えられている。
 これらの移民は、ともに新潟から開拓使庚午丸にて渡航し、五月二十一日に小樽に到着している。内訳は新潟県二四戸一〇四人、大泉藩一戸六人、米沢藩一三人、仙台藩(松島・高城)九九人となっていた(同前)。