札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第一章 札幌本府の建設

第二節 島判官の札幌本府建設

五 島判官による物資調達

 物資補給の第三の方策として島判官は、石狩府の役員を東北・北陸へ送ったのである。十一月に小貫雄五郎(直和)権大主典平田弥十郎少主典を酒田・新潟へ、十二月に松岡宗九郎(修)使掌を盛岡涌谷などへ派遣することを該当の地域監督者へ連絡し、協力を依頼している。彼らの派遣の理由も「今般当使本府石狩エ御取建ニ付、役々追々致出張候処、兵乱後米穀頗払底之所、降伏人等多人数御移し相成、益欠乏、土地之人民食料すら差支え候程之処、官舎役邸等取建候ニ付テは、諸職人等も多人数入込候儀ニ付、甚以差支候間」(諸留 北大図)というように、前掲の岩倉への報告とほとんど同じである。
 小貫・平田は十二月四日高島を出発、函館に着くのが十二月十五日である。雪中のことで便船がなく、船を雇って二十一日に函館を出帆した。二十三日に陸奥国平館に到着した。そこから雪中を陸行して一月五日に酒田に到着した。そして彼らはすぐに移民の募集と米等の物資調達に努力した。しかし「当所モ一体百事因循ノ情態、況早春ノ義ニ付、別テ一層ノ惰ヲ極メ、殊ニ米穀御買上等ノ義ニ付テハ、尚又奸商而已多ク、機ヲ望ミテハ、忽チニ莫大ノ直上ケ等イタシ候弊風ニ付」という状態であった。そのため、小貫たちは買い米のことは伏せて、少しずつ購入している。また酒田県用達開拓使用達として米等の調達に奔走させている。そうして調達した米の積出しも、川港である酒田からは氷解後でなければ出帆できなかった。それでも交渉し、小貫たちは二月上旬には米を積んだ船の出帆の手筈を取った(抜萃書類 道文一一七〇)。二月九日付の官物と移民の送り状があるので、その頃には手配を済ませていたと思われる(他郡往復留 道文一九三)。二月五日付の彼らから東京詰への書簡には、酒田での移民募集・回米手配終了後、新潟へ出張する旨連絡している(開拓使公文録 道文五七〇五)。それから考えて彼らは二月上中旬頃に酒田を出発して新潟へ移ったようである。新潟で彼らは、西三条水原県知事や同県大参事等と相談して、新発田の蔵米の調達や移民募集をしている。だが戊辰戦争で戦場となった土地であるためか「怠惰之習風、百事兎角因循而已」という状態で、特に移民募集ははかどらなかった。また前述のように新潟港は三月二十五日から鎖津している。そのため積出し等に経費がかかり、持参した資金が不足した。それで米については、新潟商社に買入れさせて回送し、北海道の産物で支払うという交渉もしている(他郡往復留 道文一九三)。平田少主典の方は不明だが、小貫権大主典はその後も新潟に留まり、再三の召喚命令(諸官省往復留 道文一八一)の後、三年十一月二十九日に函館に帰っている。そして四年一月十三日に「昨年移住民出張中不都合有之」ということで免職になった(東久世日録)。何が不都合であったのか不明である。おそらく島判官のもとでの豊平開墾や山田大主典の会計不備取調べに関して問い合わせることがあって再三召喚したにもかかわらず、帰還しなかったことが原因であろう。
 小貫たちが調達した物資は、同時に募集した移民たちと共に四、五月になってやっと小樽に到着した。さらにこれらの物資を小樽から札幌へ運送するにも手間取った。したがってこれらが到着する以前の札幌の食料状況は最悪で、米が払底するという状況にまで追い込まれていた(岩村判官在職中往復綴込 道文一九一)。