札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第一章 札幌本府の建設

第二節 島判官の札幌本府建設

一 島判官の本府計画

 島判官が構想した札幌本府について、岩村判官、東久世長官はどちらもその大きさに驚愕している。三年三月に札幌に来た岩村判官は、長官に宛て、「嶋判官之指図ハ、役所且長官邸判官及大主典邸等、早々営繕之積り。判官邸畳数二百六拾枚も敷候。図面其余は准右、実ニ結構を極候」と書き送っている(犀川会資料)。判官邸が畳二六〇枚というから、「石狩国本府指図」よりもさらに詳しい間取りを示す図面が存在していたようである。しかし判官邸の規模については、すでに二年八月頃に、判官、権判官邸の規模が示されている史料がある。それによると、玄関四畳、御用談の間一二畳、居間八畳、寝所八畳、女部屋八畳、侍部屋八畳、中間部屋八畳、台所八畳、厩一カ所で、厩を除いて六四畳である。また実際に後世まで残った島判官時代の建物と推定できる建物でも、大きいものは創成通第八号邸の一〇七坪余、同第一号邸の八九坪余である。大きさについては、その計画の大きさに驚いて、つい誇大な表現になったものであろうか。

図-1 島判官の本府計画図
石狩国本府指図』をもとに作成した。

 また九月に来た東久世長官は、「本府経営甚広大也。府前棚門新規落成、大道両側役宅也。学校病院建設地割有之。長官判官邸宅地各幅五十間奥行六十間。本府之地割三町四方。道幅三間。昨年島団右衛門雪中所経営也(中略)其成績規模之広大ナル所感賞也」と日記に記している(東久世日録)。本府前の門がどこの門か特定できないが、民地との区別を示すために大通辺にあったといわれているものであろうか。ほかの道路幅と本府の敷地の表記以外は、だいたい「石狩国本府指図」の通りの記述である。おそらく指図を見せられながら説明をうけたものであろう。やはりその広大さを強調している。
 一方このような本府について、庶民はどのように感じていただろうか。ほとんど開拓されていない土地に建設される広大な本府であるが、それについての庶民の感想はあまり多く見出されていない。松前辺での風評が場所請負人たちの日記に残されているものくらいであろうか。佐藤家の「箱館出張御用留下扣」(松前町史第三巻)には、十月二十八日の項に、松前風説書の中に次のようにあるとして、「石狩御開之上、王城同様、主総督御詰ニ相成。頓(ママ)而東京より下之大名参勤ニ可相成。京都ニは、上方大名、参勤ニ相成可申趣」と記している。後に島判官から場所請負人廃止が達されて、移り住むように指令されることなど想像だにしえない時期の風説である。この風説は、島判官が大久保、副島に書き送った「他年世界中之大名都ト可相成ト奉存候」という言葉と共通する感がある。この噂の主はだれか不明だが、官がまだ構想している段階で、「石狩大府指図」に示された規模を示しているようにも思われる。島判官の言葉や構想と同様の噂が出たのは、もしかすると島判官たちが噂の根源であったのかもしれない。