札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第七章 在住制とイシカリ在住

第二節 イシカリ在住の動向

一 在住の任命と入地

 このように、個々の在住の入地地域の決定は在函箱館奉行が行ったが、地域中の在住を入地させる場所の決定についても、箱館奉行がかなり関与したものとみられる。これをまず『公務日記』によってみると、安政四年二月二十二日の項に「石狩在住もの之場所取極、早々御普請ニ取かゝり候様……」とあり、翌二十三日には「……一リ行て、ヲタルナイ川、此上平原至テ広く、サツホロ、アツサフ山麓迄見渡し、此辺在住之場所ニ申立候処也、至極宜見ゆる」(傍点引用者)とあって、翌二十四日には「在住場所サツホロ、アツサフ両山麓ニ取極、早々普請取掛、尤差向蔵々見分、夫ニ入置候様達し書取、(水野)一郎左衛門エ渡ス」として、入地場所が決定した。そして翌二十五日には「在住場所サツホロニ治定、当分明蔵エ入候積リ、見分為致候処、少しも差支無之事」と、到着した在住の処置にまで言及している。これからすると、イシカリ役所の意向を奉行が検分して承認するという手続きがとられたようである。
 この在住入植地の中心として位置づけられた「サツホロ、アツサフ山麓」の中心はハッサム川流域であった。このハッサム川については、安政三年五月に松浦武四郎は「ハツシヤフ川巾凡七間、遅流にして深し」(竹四郎廻浦日記 上)とその概要を記している。また同四年六月に奉行が幕府に提出・裁可された札幌越新道開削に関する伺書のうち、関係分を摘記すれば、
西蝦夷地石狩場所之儀ハ、蝦夷地中央ニテ遠山遥ニ四辺ヲ囲ミ、平原沢野打続水草之弁利宜、在住之向も追々移住致候儀ニテ、実ニ蝦夷地之咽喉とも可申土地柄ニ御座候……石狩運上家有之場所ハ全川口之漁場ニテ、風当強く災も有之永住ニハ不便之場所故、同処より拾里程南発作部(ハツサブ)山麓ハ、山添ニテ地味水利之便も宜敷、海岸セニハコ漁場より三四里も隔都テ弁利之場処故、在住之者共え同所ニテ夫々屋敷地割渡開発等も取掛候儀ニ有之。
(御用留 巻之弐 木村家文書)

 と記されている。おそらく二月の調査・内定をふまえての伺であろう。ここではハッサムが在住入地場所として適地とされているほか、イシカリ河口辺が入地不適地とされている点が注目されるが、実際にはここにも相当数の在住が入地している。これからみると、土地選定の条件の第一は、いうまでもなくイシカリ平野の持つ位置の重要性であるが、その中でハッサムを選んだ具体的な理由は、まず土地の肥沃さであり、これについて、同文書は築道の問題としてではあるが、石狩川添平原は谷地の多いことを指摘している。もう一つは交通の便であり、これには陸路と河川交通の両方が考えられているが、これは営農を成立させるための物資輸送に関して、不可欠のものであった。これについては、前記松浦のほか、玉虫左太夫の『入北記』にも「石狩ヘノ通路ハツサフ川ヨリ舟行アリテ便利大ニ宜シ」、「此ハツサフ川ハ小川ナレトモ深フシテ」とこれを裏付け、明治になってからの聞取りでも、幕末の発寒川は沈木、浮木が少なく、比較的良好な交通路であったとされている。また陸路は、安政四年阿部屋によっていわゆる銭箱道が開かれ、人の往来は主にこれによった。さらに「蝦夷地の咽喉」という文言は、ロシアに対する防備をも含んでいることを示している。在住制ロシアとの関係によって、防衛策の一環としてとらえられている以上、当然であろう。
 以上のような理由から、サッポロ・ハッサム山麓に在住入地場所が内定されたが、具体的な場所としてはハリウス、ホシオキ、ハッサム、それとホシオキに入地した中嶋彦左衛門中川金之助の「開発場」としてのコトニである。
 しかし、在住の入地先は、このほかに奉行が不適地としたのにかかわらず沿海地域にも一つの群としてあった。すなわち、前掲史料で「風当強く災も有之」、「谷地多く」とされた石狩河口部を含むオタルナイ川、シップヤウスバワッカオイ(テイネイも加わると思われる)などで、この地域の入植場所がどのような経過・目的で決定されたのかは不明であるが、少なくともハッサム等とは異なり、必ずしも拓地殖民のみを目的としてはいなかったように思われる。これについては後述する。