第四編 イシカリの改革とサッポロ
第六章 アイヌ社会とコタンの変貌
第二節 人別帳にみるアイヌ問題
二 アイヌ社会の人口構成
慶応元年の人別帳による当時のアイヌの軒数は一一五軒、人口は四三九人であった。安政期以降の軒数・人口の変化をみると、表5のようになる。これによるとアイヌの人口は、安政元年(一八五四)から四年まで漸減をみせ、五年になると大幅な減少にいたる。元年から四年までは阿部屋による調査で、軒数は変更させないなど箱館奉行へ減少の度合を低くみせるための虚偽の数値であるにもかかわらず、四年ほどで八六人もの減少をみている。五年になるとイシカリ役所による調査数で、実態にもとづくほぼ正確なものとみてよい。五年の場合、上川までを含んだ石狩川及び枝川の流域に住むイシカリアイヌの軒数は一四四軒、人口は五四三人であった。ついで慶応元年になると、一一五軒、四三九人とさらに減少を続ける。
かつて隆盛をほこり、文化七年(一八一〇)には、三〇六七人と数えられた石狩川流域のアイヌも、わずか五〇年余りで七分の一、一一・五パーセントほどの急激な減少をみるのである。請負体制を中心とした和人によるアイヌ社会の破壊が、いかにすさまじいものであったか、この数値が如実に物語っている。 |