第四編 イシカリの改革とサッポロ
第六章 アイヌ社会とコタンの変貌
第二節 人別帳にみるアイヌ問題
一 人別帳の作成
近世の幕藩体制の民衆支配は、人別帳をもとにおこなわれてきた。蝦夷地のアイヌにも、やがて文化年間(一八〇四―一七)ころから、人別帳が作成され始めてくる。
イシカリ場所において、人別帳が残っているのは安政三年(一八五六)以降である。しかし、それ以前にも何年分かの戸数・人数の統計が知られているので、戸口調査と同時に人別帳も作成されていたと思われる。 人別帳の作成目的は、人口調査、労働の雇用、撫育料の算定などにあったとみられ、第二次直轄以降はオタルナイ場所などでは連年作成されていた。イシカリにては安政三年、同六年、慶応元年、同三年の人別帳が残っているが、安政三年をのぞきいずれも断片である。 安政三年の人別帳は、松浦武四郎が記録した「野帳」三八冊中、「巳第三番」に収められている(新札幌市史 第六巻)。ここには、トクヒタ以下の十三カ場所の人別が一軒ごとに記されており、そして各場所の末尾に総軒数、男女数と合計が記されている。いま十三カ場所分をまとめると、表1のようになる。
これによると、安政三年当時、イシカリの十三カ場所では一六六軒、六五五人のアイヌが居住していたことがわかる。しかし、人別帳はその実態と非常に乖離(かいり)したものであり、武四郎に「不人別帳」であるとはげしく糾弾され酷評されている。 |