札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第五章 サッポロ越新道

第一節 箱館奉行の新道計画

一 イシカリ場所の新道

 先の箱館奉行の計画にそい、西海岸でも安政三、四年に各地で新道の切開がおこなわれるようになった。イシカリでも、(一)イシカリ・アツタ間、(二)イシカリ・ツイシカリ間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本の新道が計画された。
 このうち(一)・(二)は、安政四年二月二十四日に、廻浦のためにイシカリ入りした村垣範正は、
 一 アツタ新道切開之儀、支配人呼出し為談候処、早速請書出ス。早々御役所へ願書出し候様申渡ス。
 一 イシカリよりツイシカリ迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。

と、『公務日記』に書き留めている。この時に、イシカリ場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。
 (一)は安政三年三月松浦武四郎の献言(燼心餘赤)にもあるように、もともと「浜通り道宜敷」ところであった。(二)は元来、石狩川の舟便を利用できるところであり、あえて道路の必要もなかったのである。しかし、アツタよりマシケまでの山道開削が困難なために、ヲシラリカ(現在の雨竜町付近)を経由して、マシケ・ルルモツヘ(留萌)へいたる迂回路の一部として計画されたものであった。
 このルルモツヘ越に対し武四郎は、「扨(さて)マシケより石狩迄の処、海程にては風順宜敷候共是非五日は懸り申候。右を川儘上り候山道仕候はば、余程便利に相成申候」(燼心餘赤)と述べている。さらに敷設に関して三分の一をイシカリ請負人にあてることを献言しており、この武四郎の献言のもとに(二)が申渡されたのであるが、武四郎自身もこの年(安政三年)五月九日に、山道検分のためにイシカリを出発し、石狩・雨竜・恵岱別川をさかのぼり、信砂川を下って十五日にルルモツヘに到着している。
 (三)は日本海側の銭箱と太平洋側のユウフツとをむすぶ、石狩低地帯を横断する道路である。その間、ハッサム・サッポロ・シママップ(島松)・千歳を経由し、非常に重要な幹線道路でサッポロ越新道、あるいは千歳越新道と呼ばれた。この道路の開削は三区間にわけられ、銭箱・ホシオキ間はオタルナイ場所請負人の恵比須屋(岡田)半兵衛、ホシオキ・シママップ間はイシカリの阿部屋伝二郎、シママップ・ユウフツ間はユウフツの山田屋文右衛門にわりあてられた。このうち最も難工事なのは、阿部屋にわりあてられたホシオキ・シママップ間であった。

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写真-1 ツイシカリ番家(西蝦夷図巻より)