札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第四章 イシカリ改革

第三節 漁業の推移

三 混迷のイシカリ漁業

 イシカリ改革にともなう漁場改会所網持出稼人を主軸とした漁業展開は、五年にして曲り角にさしかかった。大半の出稼人の経営は不安定で出入りがはげしく、先の見通しが立たない。たとえばサッポロ川(現伏籠川)がイシカリ川に合流するあたり、サッポロブト(現茨戸付近)に引場の割渡しを受けた上の国の人久吉は、万延元年五月その返納を願い出る。理由は「年々不漁にて銀主方え勘定相立不申候間、当年は銀子方より仕込も出来不申候に付、漁業取掛り出来兼」(市史一九八頁)るため。そのあとをすぐイワナイの人角兵衛が引き継ぐが、こうした交代はめずらしいことでない。
 イシカリ役所は困窮した出稼人へ、応急の米塩を貸し付けたが、その返済が滞る一方で、ついに文久元年(一八六一)五月貸付を停止した。この際、次のように出稼人に申し渡した。
(前略)上納相滞、右は連々御貸附高莫太に相成のみにて、返済方は不捗取、諸失費多分相懸り、右様の次第故、既に越後国佐藤道逸等え御任に可相成候ては、役々並に取締役以下、是迄骨折も無之相成、且詰合御人減は勿論、取締り役以下は、道逸奴僕の如く追廻され、或は暇など出され候儀は眼前
(市史二八〇頁)

という様子であった。ここで注意しなければならないのは、出稼人金主(仕込みや融資をする人)と改会所の関係である。貸借の不均衡は出稼人の自主的漁業経営を不可能にし、両者の間に立つ改会所を含めて金主への従属化をまねく。金主は負債の方(かた)に引場を掌中に収め、また出稼人を自家の人のように左右し、イシカリ漁業を牛耳る程の勢いを見せてきた。
 前文の佐藤道逸は越後の松川弁之助グループの一員。イシカリとカラフトの一体的直捌制にともない、松川は北蝦夷地差配人元締として参画、文久二年多額な損失を理由にカラフトから手をひくが、一方オタルナイ船改役を足場にイシカリ漁業に進出する。松川の親戚(鳥井)権之助は文久三年金沢藩(加賀)に意見書を上呈し、イシカリを含めた西蝦夷地一三カ所の分領出願をうながした。
(前略)石狩は鮭漁一式にて、平地凡五、六拾里の中央に大河有之。船々入港、至て地広、西地の中央に有之。東浦ユウフツ迄三拾里余、山中無之、左右は遠山高く、追々は田畑新開の見込も有之、至て要地に御座候。右は迚も御大家に無之候ては御持切も相成兼候儀と奉存候
(ロバート・G・フラーシェム他 鳥井権之助と加賀藩への意見書)

 この目論見は実現しなかったとはいえ、越後松川グループのイシカリ漁業進出は佐藤広右衛門の名により、着実に展開していったことを表9からうかがい知ることができる。