札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第四章 イシカリ改革

第二節 改革の新仕法

三 流通機能の整備

 制度の改正とともに、新たに流通事業の取扱人を置いた。名を喜三郎といい、越後国水原村(新潟県)の人。彼は安政五年(一八五八)三月五日「石刈(狩)川両岸を根本」(水戸大高氏記録 二六)にして、箱館からカラフトにいたる一帯の〝開発方御用取扱〟を命じられた。この開発方とは漁場新開や農地開墾だけでなく、出産物を江戸に開設したばかりの産物会所に運送することを第一の務めとし、余力をもって各地へ自由な移出販売が認められ、一方、箱館や蝦夷地に生産生活物資を供給する事業である。だから場所請負人的な側面を持つが、主な仕事はイシカリを基地とする流通である。これが生産活動を基本とした勝右衛門との根本的なちがいといえよう。喜三郎はこの前年、箱館奉行所から何かの仕事を与えられた。天領である水原村代官所の米三千石を箱館に運送する役ではなかったかと思う。この際、蝦夷地出産物を越後出羽両国で売りさばきたいと願い出、一年後に御用取扱を申し渡されたのは、イシカリ改革―直捌を予定してのことだったろう。
 御用取扱となった彼は水戸藩の名声と威光をかりて蝦夷地産物の集荷をもくろみ、いち早く江戸の水戸藩邸をたずね「御名目、御仕入」(蝦夷地産物御手捌の儀越後国喜三郎目論申出留)させてほしいと願い出た。そのかわり自由になる荷物は水戸の海の玄関那珂湊に送り、藩の指定する商人にまかせるので、藩から趣意金六〇〇~七〇〇両を貸与してほしいというもの。喜三郎が江戸の産物会所に運送する荷物も、ここで川船に積み換えて送る方が安全有利だったのである。江戸藩邸からこの願意が国元に伝えられ、喜三郎も水戸に行き説明し荷物の引受人を探した。藩の勘定所が仲介して町年寄や豪商にあわせ、那珂湊の穀会所関係者を呼び出したのも、この件でなかったか(穀御会所御用留)。交渉の結果、喜三郎船が運ぶ自由荷物を那珂湊商人が引きとり、藩内はもとより近隣に広く販路をもとめて利益をはかることになり、喜三郎へは藩から三〇〇両の資金が貸与された。
 この金を持って彼が箱館に来るのは安政五年七月、そこからイシカリまで足をのばし、イシカリ永住を願い出ると、こんどは長岡藩(新潟県)に顔を出し、蝦夷地産物専用の売払所取り建てをもちかける。水戸藩の出金に味をしめたのだろうが、長岡藩は幕府に気がねして町人との個人的商談しか認めず、蝦夷地へ送ろうとした米、酒、醬油、紬、木綿等の買い付けも、どのくらい実績をあげえたか不明である。
 喜三郎は姓を藤野と称し、屋号は高田屋。いわゆる仕事師で、天保年間印旛沼干拓に鶴岡藩(庄内)の一員として加わり、嘉永年間会津新潟間の阿賀野川改修による通運を手がけて失敗、「日本をだましてあるく此喜三」(赤城源三郎 高田屋喜三郎に関する資料)と落書されたという。同郷の松川弁之助等が彼を酷評しているところを見ると、口先でまず仕事をすすめる人物だったらしい。
 この時代、イシカリを根拠地とし産物の集荷に活躍したはずなのに、彼の名は北海道の史料にほとんど見あたらない。そこで類似の仕事をした人を探すと三国屋金四郎が浮かんでくる。箱館奉行所の〝御用達〟を肩書きにし、「越後新潟金四郎、喜八、イシカリ場所漁業出稼、且土地開発方被仰付」(港省衙規則)、手船をもって流通にたずさわるほか、イシカリで、アツタで鯡漁(にしんりょう)を行い、イシカリやヨイチに移民を入れ農業開拓にも手をつけた。しかし、その使用人が「大勢の家内撫育方行届き兼……金四郎にては才覚とても行届き兼」(市史一八七頁)とイシカリ役所に歎願した程度の者だった。本州で高田屋喜三郎といい、イシカリで金四郎と呼んだのは同一人物なのだろう。屋号三国屋は喜三郎が江戸と越後を股にかけ往来した三国通に依ったと思われる。文久元年(一八六一)イシカリのシビシビウシの漁場を人手に渡してから、金四郎の消息はわからず、開発方御用の実績がどの程度あがったのか疑問の残る者である。