札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第四章 イシカリ改革

第二節 改革の新仕法

一 出稼の奨励

 島義勇は松前江差地方を視察し「近年不漁の由にて、土人(松前江差の住人)男子は大形石狩辺の奥え出稼に参り候由」(安政四年五月晦日付書状)と報告し、成石修輔は木古内で「里人は皆出稼して、常に夷地に有り」(東徼私筆)と書いている。その出稼人イシカリ改革直前、イシカリの両隣場所にひしめいていた。安政三年西隣りのオタルナイ場所の内、クマウス~銭箱間には二八出稼小屋が二〇六軒もあり、急増する家木伐採で森林が荒れるのを心配、屋根や壁に木材を使うことを禁じたほど(廻浦日記)。この年オタルナイでの越年戸数は三五〇軒をこえた(牛丸謙三郎 唐太久春古丹迄道中日記)。東隣りのアツタ場所も同じ様子で、ウエンシリからオショロコツ、アツタにかけて出稼小屋がつづき、安政四年には九七軒一〇二〇人に達した(罕有日記)。
 イシカリ近隣へのこのような出稼増加は、箱館奉行の積極的な奨励施策によるところが大きい。西蝦夷地神威岬の婦女通過禁制を否定し、箱館及び近村から蝦夷地へ出向く者の沖の口改めを不要とし、入役銭を免除、開拓に従事する出稼人(開墾、台場建設等)は越年役も免除することになり、文久元年にはヤムコシナイの関所を廃止し、自由に通行できるようにした。こうした封建的通行流通の制限撤廃とともに、道路や通行家の整備をすすめ、出稼の便をはかった。しかし、イシカリ場所の請負人阿部屋は、ごく一部をのぞいて固く門戸を閉じ、二八取りの進出を拒否していたのである。
 イシカリ改革により「請負人を廃し出稼を許せしより、忽ち和人数十戸入込み来り、小商売など営めり。茶屋兼旅籠屋も十軒許出来たり。尤も平常は漁業なき処故、鰊時の如きは鰊場に赴き(但し人足を勤むるものを残し置く)、秋味時に帰り来る有様なり」(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)。また、鮭漁でにぎわいはじめる安政五年八月十一日、勝右衛門が浜名主として市中に廻文した一節には次のように、イシカリ住人の急増ぶりを述べている。
今般御改革に付、諸方より出稼入込、の者とも多分シマコマキ、スヽツ(スツヽ)、イソヤ、イワナイ、タカシマ、ヲタルナイ辺より罷越候様相見得。然に近年西蝦夷地不漁の場所も多(く)有之候に付、親妻子為介抱秋味出稼に罷越候所、此節七百人余も相集り、仍て是迄の通方給代の儀は、六月より秋味仕舞迄入込候由。尤、御趣意に相叶へ候へ共、見請候所、多分は売女渡世にいたし……人寄集(り)、口論の儀も聞及候得共、其者より願出も無之、此度は聞捨難し。前文の売女、殊に居酒旁々昼酒買入候に付、左様の儀有之候哉に存候。
(市史一二八頁)

 このように、イシカリに来る者は多かったが、漁業従事者かそれを相手とした仕事をする者がほとんどで、夏に住人が急増し冬は極小人数となる季節的往来だったらしい。漁業の出稼については第三節にゆずり、そのほかの仕事をイシカリで営もうとした人々を表2にまとめてみた。この中にも時季的に鮭漁とかかわった人は多かったであろう。
表-2 イシカリ来住者の業種 (安政5年~文久元年)
業種従事者名備考
小商内与右衛門(133)  万吉(133)  嘉七(135)  弥四松(135)  新兵衛(135)
米吉(140)  啓吉(141)  文太郎(155、156、158、168)  三右衛門(155、158、163)
金太郎(156)  和三郎(156)  文治(157、158、163、190)  喜三郎(162)
彦松(165)  兼吉(166)  武兵衛(166)  七五郎(167)  岩吉(168、189)
宇兵衛(170)  伝右衛門(172)  秀松(174)  兼吉(183)  留五郎(184)
駒吉(184、216)  吉太郎(185、191)  市右衛門(190)  久右衛門(193)
源五郎(194)  孫兵衛(兼漁業)(194)  初五郎(195)  孫三郎(208)
喜三郎(211)  彦蔵(212)  福松(214)  松右衛門(216)  与兵衛(217、218)
松蔵(217)  喜三郎(218)  吉蔵(219)  源五郎(224)  兼五郎(224)
米蔵(229)  孫兵衛(231)  喜八(236)  伝蔵(兼渡守)(259)  要吉(284)
雑多な生活用品を販売したのであろう。
同名異人であることが明らかな場合、判断しかねる場合は別人とした。
(46人)
小間物円吉(兼漁業)(60、118)  甚五兵衛(兼木綿物)(270)  徳兵衛(287)(3名)
旅籠、木賃宿文作(60、118)  徳右衛門(183)  新蔵(183、206)  太兵衛(195)
八右衛門(兼荒物)(60、118、206)  源吉(206)  清三郎(206)  宇兵衛(206)
熊蔵(206)  清五郎(206)
(10名)
料理、仕出し玉蔵(163)(1名)
うどん、そば新蔵(兼木挽)(60、118)  末吉(168)(2名)
勇蔵(135)  忠蔵(165)  熊五郎(174)  菊松(227)(4名)
豆腐栄吉(兼小商内)(150)  鶴蔵(152)  善七(283)  長次郎(兼小間物)(164)長次郎は油揚屋を称す
(4名)
青物、菜物彦四郎(222)  五郎兵衛(222)栽培も兼ねたらしい
(2名)
儀兵衛(223)(1名)
仕立物永次郎(135)(1名)
髪結平吉(60、118)  政吉(154)  幸蔵(225)(3名)
鍼師令春(210)(1名)
畳刺粂太郎(276)(1名)
左官長蔵(216)(1名)
大工伝蔵(237)  栄七(281)  熊次郎(282)(3名)
手間取稼八兵衛(150)  九郎右衛門(157)  久三郎(283)(3名)
仕事師春吉(193)(1名)
鍛冶栄治(194、221)(1名)
柴根堀第次郎(60)(1名)
炭焼倉吉(兼漁業)(60、118)  竹松(188)  重吉(201)倉吉は倉松か
(3名)
五十嵐勝右衛門文書の『石狩御用留』(新札幌市史第6巻所収)によった。表中の(数)はその頁数。御用留に欠本があるため、業種や従事者はもっと多かったはずである。漁業、農業専従者及び仕事の不分明な者は表に含めなかった。

 出稼に門戸を開いたイシカリの町は、これらの人々のほか、漁業者、三問屋、三御用達をはじめイシカリ役所改役所の関係者、そしてアイヌとともに、新しい町づくりが始まったのである。
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写真-5 安政6年のイシカリ(西蝦夷地樺太道中記の内)