札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第四章 イシカリ改革

第二節 改革の新仕法

一 出稼の奨励

 大津浜グループの代表格としてイシカリに登場した勝右衛門は、姓を五十嵐といい、水戸藩内ではこれを名乗り得た身分である。あまり使わないが、屋号は 大丸屋(だいまるや)という。さかんに〝水戸大津浜〟の住人を自称し、箱館やイシカリで〝水戸〟を、水戸藩内では〝大津浜〟を強調することが仕事上有利だったらしい。水戸藩士のイシカリ調査報告書には、勝右衛門を「身一つにて罷下り……所体道具迄(山形屋)八十八より出金相成……素より浮浪の勝衛門に候へは自分物は一銭も無之由」(生田目氏日記)と評しているから、農民のように土地に常住していなかったのだろう。漁師でもなさそうだから、後述(七六八頁)の喜三郎と相通じるタイプの人物なのだろうか。
 彼の本籍ともいうべき宗門人別帳の所在は今のところ不明だが、出稼人別帳が二つ知られる。一つは箱館の万延元年九月調の『内澗町、会所町、大工町人家幷家業方書上』で表紙には人別調書とある。その大工町一丁目に「一 イシカリ出稼 市蔵店 水戸旅人五十嵐勝右衛門」の一行があり、イシカリ出稼は家業の欄にあたり、市蔵店とはそこに住居していることを意味する。もう一つはイシカリ役所に同年差し出した人別調(市史二四四頁)。そこに代々浄土宗で、この年五五歳とあるから、文化二年前後の生まれ。したがって天保の場所貸借掛合の頃は三十代後半、イシカリに来たのは五十代前半ということになる。
 このように勝右衛門に関する資料はわずかしかないが、茨城県立歴史館や北茨城市歴史民俗資料館の協力を得て水戸大津浜に彼の消息を求めたが手がかりは得られない。明治以降の大津には五十嵐姓の人はおらず、屋号 大丸屋を知る人をさがしえない。さらに大津には浄土宗の寺は今も近世にも存在しない。となると、本当にここの住人であったかどうかきわめて疑わしい。
 それでは勝右衛門の出身地はどこか。参考までに次の記事を紹介しておきたい。鶴岡藩(庄内)がハママシケ(浜益)を分領し、国元から赴任途中の松浦千代兵衛が、万延元年三月二十七日箱館でのこと。
 加茂(現山形県鶴岡市)よりの誂ひ書状、内澗町万上屋喜八、大工町五十嵐勝右衛門殿へ罷越相届申候。
但、勝右衛門殿え致面談候処、加茂村弥兵衛の勘兵衛殿也。久々の対面にて過越候事、又蝦夷地等の事、色々咄合仕候内、先年御町奉行の節、高橋様の御威光に罷成候間、幸ひ当地え御下り、又私も以前と違ひ、石狩場所浜名主も相勤居候間、御執成を以、御目通被下置候様にと御願有之候。其内酒等馳走に相成、罷帰候。

(松浦千代兵衛 蝦夷地道中日記)