札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第三章 諸藩のイシカリ調査

第二節 諸藩の関心

[玉虫左太夫『入北記』]

   (安政四年閏五月)廿三日[朝雨巳後快晴]
 辰牌発シテ(ヲタルナイ)会所前ヨリ舟行ニテ三里余行キテ、ハルウスト云所ニテ上陸、同所番家ニテ小憩小飯ヲ喫ス。此所、石島アリ。高サ十丈計、幅半丁程ナリ。此鳥(島か)際ハ舟ノ繫リ場ナレト、狭隘少シク誤テハ、暗礁ニカヽリ、危キ場所ナリ。今日セニハコト申所マテ舟行ノ積リ、逆風且波荒ク、ヨリテ此所ヘ上陸シタリ。夫ヨリ一里計海岸行キテ、セニハコヘ来リ投宿ス。当所ハ(元ヨリ会所ニモアラス)番家ナレハ茅葺ノ小屋ニテ(漸ク鎮台ノ)膝ヲ入ルノミニテ狭隘ヲ極ム。近中ノ内四人、用人一人、鎮台ニ附キ添フノミニテ、外人数ハ別家(下宿所ヘ)投宿ス。
 サテ、是マテハ太低家続キ可ナリノ所ナリ。セニハコト申モ、村名ニアラス。古ヨリ是所ハ運上金外ノ(上ケザル)場所ニテ、ヲタルナイノ銭箱ト云フコトニテ、竟ニ村名同様ニナリタル由(カク唱ヒ来ル由ナリ)。此所モヲタルナイ領ノ内ナレハ、別ニ里数等ヲ記サズ。今日ノ里数纔三里余ニ過サレハ、投宿モ未前、其後退屈ニ堪ヘズ。幸ヒ鎮台海岸見分イタサルニヨリ、僕モ随従半里計リ行キ小川アリ。名ヲトハス、夫迄ニシテ帰リタリ。サテ此間別ニ風(絶)景モナク、只石狩或マシケノ岬ヲ望ノミ。尤此海岸、サホトノ広サニモナカリシカ、荒草蓁々トシテ、其内野蘭ト唱ヒ菅ニ似タル草多ク生ス。土人是ヲ取リテ縄ニ用ユルト云フ。又、鱒ヲ漁スルヲ見シカ、俗ニ地引ト云フ網ヲ以テ人数十人ヲ以テ引揚ケシカ、今日ハ波荒ノ由ニテ(一尾モ取リ得ス)〓ノミ取リ得(沢山ニテ)大ニ失望シタリ。夫ヨリ一二丁来リ、玫瑰ノ花ヲ干シ居ルヲ見タリ。何ノ為メソト問ヒシカハ、此辺僻地ユヘ名医ナシ、風疾或女ノ血暈ノ節、是ヲ煎シ用ユレハ忽チ平愈スト云フ(カク干シテ蓄ヘ置クナリ)。右ニ付、追々或者ニ聞シニ、和方サフラン同様ノ功能アル由、是又奇花ト云フベキナリ。帰館申牌ニ及ベリ。
   廿四日[朝雲霧午後快晴]
 辰前発ス。今日ハ海岸通リ石狩ヘ至ルベキノ所、山道ハツサブ道、此度新タニ開キタルニヨリテ、見分旁々此道ヲ行キ随従ノ者過半減ズ。用人郷昌作近習ハ僕一人中小性畠山万吉森深蔵両人其外僕隷三人場所詰ノ役々四五人ノミナリ。残ル人数ハ海岸通リ石狩ヘ行キテ待受タリ。鎮台始僕等、山道三十丁程行キ川アリ。ポシポキ川ト云フ。独木橋ニテ馬行叶ハス。此処(川下ヲ)ヲタルナイ(川ト云テ)石狩境ト云フ。サテ此迄ノ山道(山路坂ハナケレドモ)大低谷地多ニシテ路程甚悪ク、樹木森々且熊笹砥草ノ類多ク生ス。此所小憩、又行クコト一里半余ニシテ、ウエンシリノ麓ニ至リ、又小憩ス。ボシホキ川ヨリ少シ行キテ(此間一ケ所)険阪アリ。阪路甚狭シテ一人立ニテ上リケルガ、恰モ繫キ猿ノ如ク見ヘタリ(放チタルニ似タリ)。三丁程ニシテ(高サユヘ暫時ニシテ)上リ終ル。山上平坦ニシテ樹木多ク朽チ倒レタル木多シ。惜ムベキナリ。又廿三四丁ニシテ、ポンハツサフニ至リテ、又小憩。此辺折々平衍ノ地見ヘタリ(能ク世話イタシナハ開墾ナルベシ)。官ニテ此度在住ノ旗元共ヲ指置レント、当時切角ノ御世話ナリ(取リ行ヒ尤ノコトナリ。併シ地味至テ宜シカラズ。ナレトモ四五寸位モ上土ヲ掘リ去テハ、随分上土トナルベキト思ハルヽ。唯此地ニ限ラズ、処々ニ如此地多シ。能ク々々検察イタスベシ)。
 又十六七丁行キテ、ハツサフ内フシコベツト云所アリ。土人四五軒アリ。地味大ニ宜シク、在住旗元山岡誠次郎ナル者、此地ヲ択ビ、少々畠ヲ起セシガ、可ナリニ出来モ宜シク見ヘ、且ツ石狩ヘノ通路(便利)、ハツサフ川ヨリ舟行アリテ便利大ニ宜シ。彼是誠次郎ノ見立テ感心ト云フベキナリ。外ノ在住ノ者モ、此近辺ヘ指シ置カハ追々ニ繁花ノ地トモナルベシ(屹ト宜シカルベシト思フ)。是ヨリ舟行ニテ、土人製造ノ丸木舟<丸木舟ト云フハ一大木ヲ刳メテ作リタル舟ナリ>、本日舟八艘程艤シ居タリ。此ハツサフ川ヲ四里余モ下リテ石狩川ヘ至ル。此所ニテ別船屋形船ヘ乗リ移リ四里程ニシテ石狩ニ至リシム。
 サテ此ハツサフ川ハ小川ナレトモ深フシテ秋末(味)数多ナリシカ、当節ハ只コウホネ、菖蒲ノミ生シ居ル。両岸ニ樹木多ク見ユレトモ往々谷地ナリ。土人ノ申ニハ雪解ケノ節ハ、此両岸ヨリ五六尺モ高ク水溢レ出ルト云フ。サモアルベシ。此度通行セシニ大木縦横ニ倒レ、川道ヲ塞ク。数年来ノコトユヘ、只今トナリテハ(塞キタル所往々ナリ。数年来カクイタシ更ニ構ハサリシユヘ自然)水道壅塞、水ノ氾濫スルモ尤ナリ。能ク是ヲ浚ナハ、丸木舟ハ勿論ノコト大船百石積位ノ舟ハ通スベシ。其外開墾ノ地モ数多出来スヘキニ、カクイタシ置クコソ実ニ惜ムベキニ非スヤ。
 又石狩川ハ余程大河ニテ、幅狭キ所ハ五六十間、広キ所ハ百間余モアルベシ。渺漫タル河ナリ。此水源此頃松浦竹四郎探索セシカ、カムイコタント云所ヨリ三四十里モ深ク探リシカ(乗リ込ミシカ屹ト)、竟ニ水源ヲ尋ネ得スシテ帰リタリ。古昔間宮林蔵モ同様ニテ水源ヲ尋得ス。一説ニハ男アカン山ノ麓ヨリ出ルトイヘトモ分明ナラスト云フ。(夫ヨリ三里余計此石狩川ヲ下リテ湊ニ着ス。待チ)受タル御供ノ面、鹵薄ヲ整ヘ川端ニアリ。直ニ上陸シテ同所会所ヘ投宿、日已申後ナリ。
 シカルニ此迄来リシ間ニ一ノ危事アリ。此川ハ前ニ云フ通リ浩蕩タル水、舟中ノ風景、北アソ岩山トウベツ山ヲ見、東南ユウハリ山ヲ遙ニ望ミ、両岸青々トシテ樹木数多アリ。眺望実ニ快然タリシカ、中程ニ至リ鷲ノ枯木ニ止リタルヲ見タリ。兼テ備ヘタル火炮ニテ打止メント、畠山万吉森深蔵互ニ譲リ合ヒ、深蔵先タツテ岸上ニ至リ(先以岸ヘ上リ、右ノ枯木ノ下ニ至リ)放(ハナ)タントセシカ、ドントルノ発セサルコソ残念ナリ。三四度モ放テモ遂ニ発セスシテ、鷲ハ炮声ニ驚キ飛去タリ。カヽル所ヲ舟中ニテ何レモ目ヲ張リ見居リシカ、忽チ舟ノミヨシニテ水ニ落タル声セシカ、碇ニテモ落タルナラント誰モ疑ハサリシニ、豈図ランヤ畠山万吉ミヨシノ所ニ居リ、彼鷲ニ見トレ水中ニ落チ満身没シテ見ヘザリケル。舟中大ニ驚キ彼是ト騒キケルニ、蝦夷人ノ水主忽チ引揚ケタリ。カヽル浩蕩ノ水如何ナル水練ノ者ニテモ没溺スベキニ、況ヤ不達者、実ニ危キコトナリシカ、僥倖死ヲ免レ舟中ノ者漸ク安心イタシケリ(舟行ノ者、能ク々々慎ムベキコトナリ。昨日松浦竹四郎ニ出会、直々テシヲ川迄同行ニナリタルナリ)。
石狩川領持主松前城下阿部屋 伝次郎
支配人 円 吉
同領ヲタルナイ境ヨリシユツフ川迄ノ里数四里二十丁
元小家ヨリ[石狩ノ運上家元小家ト云フ]川上ユウフツ境迄ノ里数十四里半弐丁
元小家ヨリ大川通リチユクヘツフト迄ノ里数船路十四日程
出稼人四十弐人
  但辰年分ナリ。当年分ハ未タ知レサル由ナリ。此場所ハ、秋味ノミ故、秋ニナラサレハ出稼人来ラサルナリ。
土人家数百六十五軒
石狩附役土人   トクヒタ  惣乙名サヒテアエノ
        小使イカシトシ
 同上川    乙名シレアヱノ
        小使クランケ
 ハツシヤフ  乙名コモンタ
        小使リカンクル
 上サツホロ  乙名シリコフツネ
        小使モニヲマ
 下サツホロ  乙名クウチンコレ
        小使モリキツ
 上ユウハリ  乙名サンケハロ
        小使シイレンカ
 下ユウハリ  乙名ユワコラン
        小使シリカンチユ
 上ツイシカリ 乙名イクヲカアヱノ
        小使イハンケ
 下ツイシカリ 乙名ルヒヤンケ
        小使イカシトノト
 上カハタ   乙名セツカウシ
        小使イヱラムテ
 下カハタ   小使トミハセ
 シノロ    乙名インレシユ
        小使イシヨラン
 シマヽフ   乙名サケイタラ
        小使シトレンテ
 ナイホウ   乙名ニシトレン
        小使ケセアマ
凡 二十七人
   廿五日[朝快晴申後陰夜小雨]
 滞留、見聞ナシ。終日唯談俗而已。
   廿六日[朝快晴申後陰夜小雨]
 今日モ滞留。巳牌中小性島団右衛門同道、松浦竹四郎旅宿ヘ参リ、同人案内蝦夷ノ細工幷雇小屋等一見シタリ。其節蝦夷ヨリ承リタル事アリテ、其段大略綴リ鎮台ヘ指出ス。其文句左ノ通リナリ。
   昨日松浦竹四郎同道、土人小屋え罷越見聞の次第大略左ニ相記申候
 惣乙名一ケ年給代、黒米八升入七俵、外ニ役米として黒米一俵、煙草二把ツヽ。
  但八合枡ニて相渡し、惣数合一ケ年五斗二合ニ相成申候。
 小使同断。  但役米なし。
 惣アイノ同断。
 メノコ、其者の働次第ニより、四俵或は三俵、弐俵なり。
 一日の扶持米、二合五勺入の椀ニて、黒米一杯ツヽ。
  但右椀相改候所、径三寸五分、深一寸八分有之。左候得は、二合五勺と申は名目一通りニて、実入一合三勺余ニ御座候。
 細工賃、一ケ年三俵、或弐俵なり。
  右何レも番人計、外眷属幾人有之候共増減なし。
 古衣一枚相渡し、一ケ年の給代一取上ル。殊ニより六俵位取上候事も有之由なり。
 煙草四把相渡し、米一俵取上ル。白木綿四尋相渡し、是又米一俵取上候由なり。
 サツホロ小使モニヲマと申者、細工第一と相唱候者ニ御座候所、当節祖母一人のミニて妻子なし。其上祖母はサツホロ山奥え一人相残り、当人のミ此所ニ罷在、暫時たり共祖母の機嫌相伺可申と存候得共、支配人より堅ク被相禁、無拠其儘機嫌も不成伺。尤已前妻を迎候得共、当所番人慶吉と密通、遂ニ同人ニ被奪、扠々残念次第ニ御座候由、相噺居申候。
 山奥え引移候得は畠地相開き、稷稗の類植付、其外草木を取り、祖母両親共を養候ニは更ニ気支無之候得共、当時如此の次第ニては、日々辛苦のミ致し、祖母両親を養候事相成兼候義は勿論の事ニ御座候。アイノ一統の難渋ニ罷成義ニ御座候。何奈して御上様より畠地相開不苦旨被仰渡、右印ニ鉞なり共頂戴被仰付候ハヽ、至極難有仕合ニ奉存候。尤種類は兼て畜置候得は是は頂戴不仕とも間ニ合可申候。只今迄は畠地ニても相開き候得は、漁業の妨ニ相成候由ニて、支配人より呵責被致のミならす、弥々山中え参候事も不相成様、堅被相禁、不得已畠地の義は一言半句も不申出、此所ニ落付居候事ニ御座候。
 上川惣乙名クウチンコロと申者は、熊を能取候者ニ御座候。当春も大熊を取り候所、御足軽松田市太郎石狩水源を探索の途中ニて右を承り、内々ニて買求可申と、クウチンコロを呼ニ使を遣候得共、其節は雪解ニて大川浩蕩の水、丸木船ニては容易ニ参越候義は相成不申、左の段相断候得共、役人よりの下知彼是相断候ては相済不申、是非罷越可申と厳重の催促故、不得已アイランケ、ニホンケと申者、両人相遣し候所、大水のため遂アイランケ溺死ニ相及、其上熊皮幷熊胆取上ニ相成、今更残念の由、右乙名相噺居候事。
 松田市太郎水源探索の節、途中より此所迄飛脚指立、アイノ、ビヤケキと申者相遣し、帰り遅刻の由ニて大ニ立腹、拔身を以て追駆ケ、其上縄ニて縛り上ケ杖を以幾度も打候由、ハツサフ土人ハライテレキより承り申候
 此所雇小屋ニ居候アイノは大低壮健、御役ニ立候者計ニて、老人御役ニ不立様相成候得は山奥え追払ひ候由ニ相見得申候。
 去年中、リコンケと申者、水野一郎右衛門家来ニ我身の辛苦艱難を相噺、支配人より大ニ呵責被致、其上剃髪山奥え被追払候由承申候。
 此所アイノ雇小屋と申は茅葺ニて極麁略なり。長サ七八間横二間半程の小屋を四ツ或は五ツ位ニ相分ツ。一ケ所ニ六竈位居候容子ニ相見へ申候。尤土間ニ御座候得共、寝所計板を高ク上ケ置湿気ニ不当様致候。右様の場所、病人多ニ相成候義は尤の事ニ御座候得は、アイノより別小屋を建申度、支配人え相願候とも、薪木の費有之由ニて容易ニ相許し不申由ニ相見得申候。
 但薪木はアイノ自身ニ流木を拾取候義ニて、支配人の費ニは相成不申所、然ルを右様申付候は、定て外の奸謀有之義ニ御座候。右の通ニ御座候。御清閑の節、御一覧被成下度候。已上。
   閏月廿七日玉虫左太夫
 右ノ趣、内々ニテ指出ケルモ(鎮台)至極憐愍ヲ(ママ)情ヲ(催サレ外ニ)工夫ヲ成サレント(思召モ是アルヤニ見ヘタリ)。尤此一条ノミナラズ、土人ノ困難、中土ノ乞食ニ劣リ、第一飲食衣服ハ勿論ノコト、其外毎日支配人ノ取扱ヒ禽獣ヲ使フ如ク、万苦身ニ負ヒ、是ヲ見テ誰レカ袖ヲ湿サヽラン。且去年中ヨリ仰出シノ帰俗ノ義モ(土人共中土ノ風俗ニ変シサセントノ一条)役人共下情ヲ知ラサルユヘ無理ニ変シサセント(速功ヲ求ント)致スユヘ、土人共大ニ不服(困リ入タル容子ナリ)。僕、土人ヨリ直噺ニテ聞シカ、先祖ヨリ如此ノ風俗ニテ居ケルニ、今更上ヨリノ仰出シトテ風俗ヲ変シナハ、先祖ヘ向ヒ更ニ云ヒワケモナク、其レカ為メニ罰ヲ蒙リ病ヲ得、死ニ至リテハ大変ナリトテ(誠ニ悲シキ次第ニコレアルト)愁顔ニテ噺ケル、実ニ尤ノコトナリ。鎮台方ノ思召ハ(急ニ変セント云フニ)非ス。好、不好ニヨリテ帰俗サセントノコトナリ。シカルヲ役人共、速功ヲ著サント如此致スト見ヘタリ。カヽルコトニテハ追々土人ノ心ヲ失フニ至ルベシ。歎息ナリ。
 支配人ヨリ鎮台ヘ指出シタル蝦夷人交易品調等左ノ通。
    蝦夷人交易品覚
 玄米八升ニ付夷俵一俵向
 糀四升ニ付一俵向
 清酒四升ニ付一俵向
 濁酒八升ニ付一俵向
 地迴煙草四把ニ付一俵向
 大供古手上一枚ニ付夷俵五俵向
中同四俵弐把ヨリ四俵位マテ
下同三俵二三把向
  以前ハ上ニテ六俵位ノ品モコレアリ候ヘトモ、当節ハ大概上ニテ五俵位ニ勘定仕候。然トモ其品ニ応ジ見計ヒ。
 小供古手上一枚ニ付夷俵三俵二三把ヨリ四俵位マテ
  余ハ是ニ准ジ見計ヒ、代料相積リ申候。
 上代染五尺ニ付煙草一把向
  但四切ニテ夷俵一俵向
 楬布(褐ノ誤ナラン、カチンノコト也)五尺ニ付煙草一把向
  右同断
 白木綿六尺二寸ニ付一把向
  右同断
 厚子一枚ニ付夷俵一俵向
 裂織一枚ニ付一俵向
 網糸八十繰ニ付一俵向
  但二十繰ニ付煙草一把向
 鐇(マサカリ)一丁ニ付一俵向
 田代一枚ニ付一俵向
 間切八枚ニ付一俵向
 皮針八本ニ付一俵向
 小針十六本ニ付一俵向
 モツタ一丁ニ付一俵向
 魚取鎰(カキ)二本ニ付一俵向
 鍋一升入ニ付一俵弐把
  余ハ右ニ准シ申ヘク事
 カモヽヽ二ツ入一組ニ付一俵向
 夷椀二ツニ付煙草一把向
 柄提大一ツニ付弐把向
 同小一ツニ付一把向
 夷台盃一組ニ付並ニテ夷俵五俵向
  余ハ其品ニ応シ代料見積申候。
右ノ外、塗物類其品ニ応ジ代料見計、交易仕候事。
 春中出稼鯡場蝦夷人手宛給料左の通り
上男一人ニ付夷俵七俵向
中男一人ニ付六俵向
下男一人ニ付五俵向
女 一人ニ付六俵位ヨリ四俵位マテ
 
 タカシマ、ヲシヨロ貸蝦夷人手当給料左ノ通
上男一人ニ付夷俵七俵向
中男一人ニ付六俵弐把
下男一人ニ付六俵向
 
 秋味引場普請手宛給料左の通
上男一人ニ付夷俵五俵
中男一人ニ付四俵
下男一人ニ付三俵
 
 ツイシカリフト番家守一ケ年手当給料夷俵十俵向
 シマヽツフト番所守一ケ年手当給料夷俵十俵向
 秋味糸引網蝦夷人手当給料幷テツキ蝦夷人給代共左の通
上男一人ニ付夷俵六俵
中男一人ニ付五俵
下男一人ニ付四俵
女 一人ニ付四俵ヨリ三俵マテ
女[一人ニ付二日ニテ]煙草一把
 元小家木挽夷人一ケ年給料左ノ通り
上男一人ニ付夷俵十四俵
中男一人ニ付十二俵
下男一人ニ付十俵
  但日々介抱ノ義ハ、一人ニ付玄米一升ツヽ、濁酒相添遣シ候事
 元小家網繕ヒ手伝夷人給代一人ニ付
冬二ケ月ニテ夷俵二俵
夏二ケ月ニテ二俵
 元小家夜廻り夷人一ケ年給代
一人ニ付十一二俵
  但定介抱ノ外、毎朝濁酒相与へ候
 元小家水汲夷人一ケ年給代
一人ニ付夷俵十二三俵
  但定介抱ノ外、毎夜濁酒相与ヘ申候
 元小家飯焚夷人一ケ年給代
一人ニ付九俵位
セカチ一人ニ付八俵位ヨリ六俵位迄
  右ノ外夏冬共時候相応ノ仕着セコレアルコト
 右ハ蝦夷人交易直段幷年中給料高下書面ノ通リニ御座候。以上。
   巳閏五月          イシカリ元小家
      上
 右ノ通、イカリ(ママ)運上家ニテ相調ヘタリ。当所ニテハ土人ヲ禽獣ノ如ク取扱シニヨリテ、始メテ心付、如此取調ヘケル。此後、不残相調、其取扱ノ甲乙ヲ見ンタメナリ。
(装束ノ事、犬ノ事、男女有別事、容貌ノコト、酒ヲ飲ム時ノ事、稲尾ノコト、蔵ノコト、鹿首ヲ杭ヘカケ置クコト、太刀ノ事略)
    閏五月廿七日[朝陰午後快晴]
 今日(午時ヨリ)ハツサフ在住ノ御旗元方ノ地所御見分トシテ、(鎮台出立イタサレ)海岸通リセニハコヘ戻ラレ、夫ヨリハツサフヘ至ラルヽ積リニテ、午時石狩ヲ発シケル(川通リ丸木船ヘ乗リ下リ、大川ヘ出テ屋形船乗リ移リ四里半余モ溯リ、ツイシカリ迄至ラレテ投宿ス)。其節随従ノ面々、下役加藤善太郎、給人井川儀左衛門、近習ハ僕一人、中小性森深蔵、田中良平、其外僕隷三人ナリ。残ル者石狩会所ヘ留メ置キタリ。
 サテ其節ノ道筋ハ(西南)海岸通リ一里計モ行キ小憩、又一里余ニシテ、フンベムイト云フ所アリ。兼て小憩所アリ。此間里数遠キユヘ旅人ノタメ立置クト云フ。其傍ニ土人小屋一戸アリ。極貧且ツ病人計ニテ可憐アリサマナリ。此所小憩、又半里計リニシテ小憩、又一里計ニシテ、ヲタルナイ川ニ至、又小憩、又半里余ニシテ、ボンナイト云所ニテ小憩、夫ヨリ又半里弱ニシテセニハコヘ投宿、石狩ヨリ是迄ハ大略五里余ノ海岸ナリ。沙路甚難義ナリ。ヨリテ屢々小憩ス。此辺琥珀石多ク、随従者拾ヒ取リ少シク旅困ヲ忘レタリ(サホトノ難儀トモ知ラスニセニハコヘ来リケル)。又大流木多ク、其内ニ大サ拱ノ如キモノアリ(波涛ノタメ所々ニ海岸ニ倒レ居ル。是ヲ取リ薪ニ用ヒナハ、宜シカルベキニ、カク空シクイタシヲクコソ)惜ムベキナリ。
   廿八日[朝陰巳後快晴]
 辰前セニハコヲ発シテ、過ル廿四日通リシ山道ヲ行キ、ホシホキ川ニテ小憩、又一里計リニシテ(半里計ニシテ又小憩、又半里余ニシテ)トツフシルヲマナイト云フ川ニ至リ、是ヲ過キテサンタラシケト云フ山アリ。其処ニ川アリ。是又サンタラス(ママ)ケ川ト云フ。此所ニテ小憩、又十丁計ニシテテ(ラか)ウネント云所アリ。是ヲ過キテポンハツサフニ至リ、又小憩、又十余丁ニシテ右折シテフシコベツト云フ所ニ至ル。此辺在住旗元ヲ指置カル場所ナリトテ、荒草ヲ刈払ヒ、漸ク小道ヲ開クノミ。夫ヨリ前路ヘ戻リ、ハツサフニ至リテ午飯ヲ喫ス。此所ニテ処々見分ノ上、其場所ヲ割付ラレ、御旗元方ヘ渡サレケル。彼是イタシケルニ、既ニ未刻ニモ及ヒケリ。
 是ヨリ舟路トナリ、四里半程下リ、石狩川ヘ出テ屋形舟ヘ乗リ移リ小飯ヲ喫ス。一里程行キテビヽ(ビトイか)ト云フ処ニ至リケレハ、日已ニ西山ヘ傾キ、水夫共力ヲ尽シテ舟ヲ急カセケル。夫ヨリ一里程ニシテ夜ニ入、四方暗黒更ニ見ル所ナク、各眠リヲ催スノミ。サテ土人ノ働キ(実ニ感スヘキコトナリ)、ハツサフブト[是石狩川ヘ出口ナリ]ヨリツイシカリ迄四里半余、且ツ上流ヘ溯ルナレハ、舟ニテモ中々容易ナラザルニ、少シモ休息ナシニ力ヲ尽シテ〓ヲコキ働キケルコソ感心ト云フベシ。夜子時漸ク(九ツ時頃)ツイツ(ママ)シカリニ至リタリ。何レモ疲労且狼腹トナリ争フテ飯ヲ喫ス(即チ床ニツキタリ)。サテ投宿所ノ(番所)ハ至テ麁略且ツ狭隘、漸ク膝を入ルヽノミナリ。先年焼失シテ当時仮小屋ト云フ(唯湯ノナキコソ疲労ノ者大ニ失望シタリケル)。
   廿九日[朝雲霧未後快晴]
 辰前発シ、此処ニ川アリ。ツ(チ)イシカリ川ト云フ。半丁計ノ幅ニテ、ハツサフ川ヨリ大ナリ。是ヲ過キ一里余行キテ、イビツブトト云フ千歳川筋出口アリ。幅半丁余ニシテ是又宜シキ川ナリ。是ヲ過クレハ、シマヽツブト云フ処アリ。此処ユウブツ、イシカリノ境ノ由。夫ヨリ、イサリブト、千歳川、ユウブツトツヽクト見ヘシカ、夫レ迄ハ探索セスシテ戻リケルコソ残念ナリ。ツイシカリヨリユウフツ迄二十一里余ト云フ。
 夫ヨリ前路ヘ戻リ、又ツイシカリヘ来リ(番屋ニテ)午飯ヲ喫ス。又一里半余ニシテ、行キテ西岸シノツブトト云フ枝川アリ(小川ナリ)。又一里計ニシテ、トマヽタイ、又半里計リニシテ、タンネヤウシ、此両所是皆出稼小屋アリテ(二三戸アルノミ)ヲ漁スルト云テ、又西岸ニ、トウベツブトト云フ川アリ。是又枝川ナリ。又一里余ニシテ、ヒヽ(ビトイか)ト云フ所アリ。是所ニテ小憩小飯ヲ喫、又行クコト半里余ニシテ、サツボロ古川ニ至ル。此川ハ以前ハサツホロ山ヨリ流レシ川ナレト、只今ハ水道変シテ、ツイシカリ川ヘ入ル。ヨリテ古川ト唱フ。是ニツヽキテハツサフ川ナリ。是ヨリ下ハ過ル廿四日通リシ大略記置クヨリテ再ヒ贅セス。
 サテ(此石狩川ハ段々川上ニ至レハ幅少ク狭クナリ幅五十間計ニナリ、川下ハ広キ所ハ数百間余モアルベシ。実ニ希有ノ大川ト云フベシ)今日通船ノ折カラ両岸ノ枯木ニ鷲ノ止リタルヲ幾度モ見ヘタリ。中小性森深蔵一羽ヲ火炮ニテ取得、愉快ト云フベシ。其外鎮台幷ニ深蔵四五発ツヽ放テモ残念ナルコトニハ其後一発モ中ラズ。唯一羽ニテ止リタリ。イシカリヘ着、已ニ申後ニ及ヒケル。
 僕、此川上ニ開墾ナルヘキ土地アランカト探索セシカ、逐一見分モナラズ、大略舟中ヨリ見レハ至テ地卑フシテ大水ノ節ハ氾濫ニ及ヒナン。只イヒツブトニ高キ所アリ。鎮台幷僕等モ其所ヘ登リ一見セシニ、余程ノ郊原一里四方モアルベシ。尤(畠地ニテモ開キナハ)地味モ宜シク、畑地ハ屹ト開カルベシ。其外卑キ所ニテモ能ク土塁ヲ築キ氾濫ノ水ヲ防キ、且ツ(容易ノ事ニアラネトモ)石狩川ノ水勢ヲ分チナハ善地トモナルベシ(第一千歳川ヘツヽク様水道ヲキリ割リ、又ハ西海岸アツタ辺ヘナリトモ水道ヲ開キ、其外ヨキ場所ヲ見察シテ水勢ノ分タレル丈ケ分チナハ、カヽル濫氾(ママ)ノコトハアルマシ。夫ノミナラス只今迄谷地ニナリ居ル所モ定メテ宜シキ地トナラン)。併シ中々尋常ノコトニ非ス。其(英雄)人ヲ待ツニ若カズ(必ス其計コトヲ行ハン)。
   六月一日[朝陰未後快晴]
 滞留(見聞ナシ)、午後蝦夷人(アエノ)ヘ下サレ物アリ。右御書付左ノ通リ。誠ニ感心ノコトナリ。其外支配人等ヘ賄賂(進物)ノトリヤリ、且土人取扱不宜次第、厳重御沙汰ニ及ケル。此場所支配人土人ノ取扱ヒ以テノ外、不宜(蝦夷)場所第一ト云フベシ。ヨリテカク仰渡サルト見ヘタリ(愉快ト云フヘシ)。
トクヒタ   惣乙名サヒテアヱノ
上川     乙名シレアヱノ
ハツシヤフ  乙名コモンタ
上サツホロ  乙名シリコフツネ
下サツホロ  同クウチンコロ
上ユウハリ  同サンケバロ
代アブンケグル
下ユウハリ  同ユワコラン
代タリキン
上ツイシカリ 同イクウクアヱノ
下ツイシカリ 乙名ルヒヤンケ
代イコリキナ
上カハタ   乙名セツカウシ
代バレイシヤム
シノロ    乙名インレシユ
代イナヲナントリ
シマヽツフ  同サケイタラ
代シイレンカ
ナイホウ   同ニシトレン
 其方共義、兼て被仰出御趣意ニ付、漁業の妨不相成様開墾等出精致ス。右ニ付鍬一挺ツヽ為取遣ス。
一 米三俵モニヲマ
一 同イソラン
一 同ヲフカニ
一 同二俵トマムコシ
代イソワツテ
一 同三俵ヤエコヱレ
代シツヌンカ
 其方共儀、貧窮の趣ニ付、書面の通取セ遣ス
  六月朔日
 右ノ通リナリ。外支配人ヘノ仰渡書キ略ス。
   二日快晴
 辰牌、石狩ヲ発、舟路四里弱ニシテアツタノ会所ニ至リテ午飯ヲ喫。今日ハ順風、瞬息ノ間ニ着岸シタリ。其間ノ風景滄海茫々、唯アソ岩山ヲミルノミ。サテ、アツタ領大抵絶壁ノ岩ニシテ、其下ハ即チ通路ナリ。常ニ破砕ノ岩、点々落散ス。動モスル沓ヲ傷フニ至ル(実ニ巖牆ノ下ト云フベキ所ナリ)。此辺貝化石アリト云フ。僕尋シニ、偶然一石ヲ得タリ。当所近来漁業盛ノ由ニテ、土地大ニ賑ヘ、尤出稼人数モ他場所ヨリ多カルベシ。
アツタ領持主浜屋与惣右衛門
支配人 喜蔵
同所イシカリ境ヨリハマヽシケ境迄ノ里数海岸道法 六里十八丁
山道道法 七里二丁余
巳年同所出稼人千二拾人
同所土人家数九軒
惣人別三拾七人
同所附役土人惣乙名   ミソカト
脇乙名   コンタシユイ
小使   トワヨク
 三人
    土人給料幷交易ノ価調書
 春給料上造米十八俵
中同十七俵
女ノ子十俵
 秋味給料上造米九俵
中同八俵
女ノ子同四俵
 夏分ハ土人一同生海鼠引自分商売
  但生海鼠買入三百ニ付造米一俵
 走外割鯡八束ニ付代造米一俵
 中後同十束ニ付同断
 数ノ子二十五貫匁ニ付同断
 笹ノ目三十七貫匁ニ付同断
 厚子一枚ニ付同断
   交易品ノ直段付
 麴四升代造米一俵
 木綿一反二俵
 古手一枚四俵
 清酒四升一俵
 太田原鉢一ツ四俵
 行器一ツ八俵
 大酒桶一ツ二俵
 台盃一ツ一俵ト六升五合
 カモヽヽ一ツ三升
 カンナ二十一升
 鍋一升焚一ツ代米一俵
 同二升焚一ツ代米二俵
 同三升焚一ツ三俵
 同四升焚一ツ四俵
 同五升焚一ツ五俵
 濁酒一升一升
 右の通ニ御座候
  六月二日アツタ運上家
 アツタ領、石狩ニ比スレハ土人ノ取扱ヒ尤善シトス。感心ノコト(褒メ申ベキ)ナリ。只土人ノ少ナキコソ可惜ナリ。此所発シテ海岸通リ一里計リ行キテ、ヘツトカリニテ小憩、又行クコト一里ニシテ、ヤソシケニ至リ小憩ス。是ヨリ二丁計行キ、当春新開ノ山道ヘ入リタリ。険阪且沮沢ニシテ歩行甚難義ナリ。尤馬行ハ迚モ叶ハス。雨天ノ節ハ人行モ亦叶ヒ難カラン。雷電山ノ新道極険阻ノ所ナレトモ、躶馬位ハ通行叶フナレハ、追々能ク開ナハ乗馬ノ人モ通行ナルベシ。此新道ニ至リテハ、中程ニ至リ路更ニ断ヘテ沢中ヲ歩ス。其間十八九丁巨石多ク、沢水其際ヲ通ス。旅人其上ヲ歩ス。誤テ一躓スレハ一身忽チ破砕トナルベシ。極難路ト云フベシ(人ニシテ猶如此。況や馬行ニ於テハ勿論ナリ)。其外、水ナキ所ニ至リテハ、隘路且両際大沢ナレハ少シク転躓スレハ其中ニ陥ルベシ。例ノ妄言ヲ発スルモ如何ナレトモ、カヽル開キ方ニテハ開カザルモ同然ナリ。上ヨリノ下知ナラハ、人ノ通行スル様、能開クハ当然ナルニ、前段ノ次第、未タ通行モナラサルニ(大丈夫開ケタル積リニ申上)鎮台ヲ案内シテ一見サセシハ如何ナル厚顔ニヤ。是又速功ヲ求ント僥倖ヲ願フノ輩、実に悪ムベシ。場所々々ノ役人皆如此ニハアラネトモ、十カ七迄ハ是ニ准スヘシ。慨歎ノ至リナリ。此山道四ケ所小憩ス。
 漸クゴキヒルト云フ所ニ至ル。是迄ハアツタ領ニシテ、ヤソシケヨリ二里弐拾四丁ト云フ。サレトモ平路ノ五里余ニモ当ルナラン。此コキヒルハ戸数纔二三、皆出稼人ノ居所ナリ。寂寥ヲ極ム。小憩又舟路トナリ、三里程行キテ、ハマヽシケニ至リ(同所会所ニ)投宿ス。日已黄昏ニ及ブ。
 サテ海上ノ風景、西南シヤコタン領シマコイ(ママ)岬、タカシマ領シクスシ岬、其外岬々ヲ遠ク見、雲烟ノ抹スル所画モ如カサル妙景ト云フベシ。又目前、西北ニ当リテハ畳々タル千尺ノ岩、見ルモ戦々タリ。秋冬ニ至リ西北風甚シクハ破船多シト云フ。又遙ニ突兀タル山アリ、ハマヽシケ領小金山ナリ。古来ヨリ山頂ヘ登ル人ナシト云フ。夫ヨリ少シ過キテ、アイカツフ岬ト云フアリ。海岸ヲ去ルコト纔ニ丈余、高千尋凌峭タル奇岩ナリ。僕土人ニアイカツフノ名ヲ尋シニ、夷語デキヌコトヲアイカツフト云フ。古昔蝦夷戦争ノ節、此岩上ヘ登リ居レハ、如何ナル敵ニテモ(弓矢ノ届サルヲ以テ)当ルコトテキヌユヘ、如此名ツクト云フ。是附会ノ説ナラン。僕以為ク、此突兀ノ岩中々登ルコトハナルマジ、是ヲ以テアイカツフト名クルナラン。此ヲ過キテ一里半計行キテハマヽシケニ至リケル。(ハマヽシケ領主、里程、戸口、土人給料交易価等の調書略)
 右調ヲ以テ見レハ、イシカリニ一等モ勝ルヨウ見ユレトモ、併シ此ニ一ノ可笑コトアリ。最初土人取扱等吟味イタシケルカ、何ニカ大騒動イタシテ、漸ク右調ヲ指出シケレハ(種々酙酌イタシ増米抔ヲイタシタル風ニ見ヘ)、定メテ実ヲ申出タルコトニアルマジト思フ。