札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第二章 幕府のイシカリ調査

第二節 『蝦夷志料』の編纂とその調査

二 蝦夷地の調査

 しかし、目賀田帯刀をはじめ、一行が千歳山道を実検して通行した可能性は高い。安政三年(一八五六)の調査の折には、千歳山道(サッポロ越新道)はできておらず、一行もイシカリ川を上下したのみであった。実際に通行したとしたら、安政四、五年の時である。両年のうち、特に五年の可能性がつよい。千歳山道に小休所・通行家の施設がおかれるのは安政五年であり、一行がイシカリ入りした明証もあるからである。『ヨイチ御場所見廻日記』(四月十四日条)によると、「昨日、目賀田様、市川様、脇谷様御着被遊居、今日御逗留の由」とあり、四月十三日にイシカリ入をしている。おそらく、アツタの方から下ったものとみられる。千歳山道の調査は、この時に通行しておこなったものだろう。一行はその後、八月二十七日にヨイチに到着し、翌日にイワナイへ向け出発した(林家御賄留 北大図)。
 以上のように、一行が千歳山道を調査したとなると、千歳山道の図は他者から伝聞した、事実誤認の多い想像図というより、絵画構成上の要請から地形・位置を適宜に案配(あんばい)した、脚色図ということができる。
 目賀田帯刀(守蔭)は、画家の谷文晃に師事し、遠近・陰影法などを学んでいた。弟の介庵も画人として名高い。帯刀は明治二年に開成所頭取から開拓使御用掛となり、三年五月には外務史生(樺太取調掛)になるなど、その後も北海道・樺太との関係は深かった(明治十五年卒)。