札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第四編 イシカリの改革とサッポロ

第二章 幕府のイシカリ調査

第一節 安政元年の調査

二 堀、村垣の調査団

 こうした大調査団を組織したねらいはどこにあったのだろう。その派遣に至る経緯からして、直接の動機となった目的の第一はカラフト問題、すなわち対ロシア交渉である。クシュンコタンを占拠したロシア兵を撤退させ現地を復旧すること、そしてロシア側から強く求められた国境画定にどう対処すべきかを検討するためである。次に松前蝦夷地の現況を惣体検分すること。調査団が松前藩場所請負人から提出させた調書からすると、検分はアイヌ、漁業、勤番(松前藩の警衛体制)の三点に主眼があったように思われ、中でも漁業の仕組みや生産高の詳細な把握をめざした。これらを「微細に取調居候趣……右様に取調、公辺御役人え差出候哉と、家中の内にも密に話合候もの御座候」(松前箱館雑記 一)と、松前藩にとってただならぬ雲行きを感じさせていた。そして三つ目のねらいはこの調査にもとづき、幕府としての今後の施政方針案をねることにあったのはいうまでもない。イシカリの調査は当然ながら、この一旅程に含まれる。
 なお、目付グループには福山築城検分という役割が後に付加された。もっともこれは堀が箱館奉行に任命された結果であるから、調査団に当初から課せられたものではない。しかし、堀一行にしてみると調査行程に組み入れざるをえず、旅程の中に追加された役割の一つであった。
 これだけ多人数の調査団であるから、各グループの全員が同一コース同一日程で行動したのではない。そのうち、各責任者とそれに同伴した一団を本隊と呼ぶならば、目付グループの本隊は安政元年三月二十八日江戸出発、十一月二十八日帰着、勘定方グループの本隊は、堀の前日出発、十月十日帰着となる。前者は五月二十一日イシカリに到着し一泊ののちカラフトへ向かい、後者は二日後の二十三日イシカリ着、昼食休憩のみをイシカリでとり、宿泊することなくカラフトへ急いだ。

表-1 調査団本隊の行程

 この本隊のほかに多様な別働隊があった。堀グループの河津三郎太郎、村垣グループの水野正左衛門等は先発隊として二月二十九日江戸を出発し、本隊よりほぼ一カ月早く、五月十五日カラフトに到着したが、うち水野は帰路クシロで脳溢血を患い急死する。また郡司宰助、山本悌三郎は四月十六日松前に着くとすぐエトロフ島調査に向かいカラフトには行かなかったし、後に紹介するように本隊を離れ千歳越によりイシカリに至る人、帰路東蝦夷地を回らずイシカリを再検分した人、さらに船行により往復ともイシカリに足を踏み入れなかった人など様々であるが、メンバーの大半は本隊に属していたから、この調査行において、二、三百人が春のイシカリを目の当たりにしたはずである。
 これらの人々の眼にイシカリはどのように映ったのだろう。安政元年のイシカリの現況を理解するためにも、調査メンバーにより書き残された記録からイシカリの様子をうかがうことにする。