第三編 イシカリ場所の成立
第八章 松前藩の復領とイシカリ場所
第一節 復領後の藩政とイシカリ場所
二 復領下のイシカリ場所経営
文政四年(一八二一)、蝦夷地全島が松前藩に返還されたが、前回と異なって家臣の知行制度を廃したので、イシカリの漁場経営も当然のこと阿部屋が一手に請負うことになった。
阿部屋のイシカリ場所経営は、前述したごとく疱瘡の流行による人口の激減といった事態が生じ、文政元年(一八一八)秋味運上および夏商運上ともに半減してもらっている状況であった。折りからイシカリ場所は、不漁が続き、同三年二月には、急場をしのぐために栖原茂八が運上金の未納分などを肩代わりするといった、「仕法立替」(経営の改革)が行われたばかりであった(村山家資料 新札幌市史 第六巻)。 半減された運上金は、天保二年(一八三〇)には、全部で一〇〇〇両に切り下げられ、秋味が五〇〇石以上とれた時には、一〇〇石につき二〇両ずつの冥加金上納(ただし、船積が間に合わず切囲になり、翌年に回った場合は半減)、それに上乗金、差荷料合計三九両一分と決められた。その後も阿部屋のイシカリ場所請負は継続され、天保九年(一八三八)より七カ年、さらに弘化二年(一八四五)の更新時にも同じ運上金額で請負っている。 ところで、鮭の漁獲高も復領直後は不漁のために減少したが、文政年間末には持ち直したらしく、それでも天明五年(一七八五)の一万二〇〇〇石(西蝦夷地場所地名産物方程控)にはほど遠かった。表2は、『河野常吉資料』(道図)から文化十二年(一八一五)より安政三年(一八五六)にいたる間のイシカリ場所の年平均漁獲高をあげたものである。この表によれば、徐々にではあるが回復しているのがわかる。また、事実かどうかわからないが、天保十年(一八三九)には、漁獲高を九五〇〇石と記した記録もある(松前秘説 函図)。しかし、運上金額はこの時期の最終段階においても変わらなかったらしく、『村山家資料』によると嘉永五年(一八五二)の場合、「御運上金千両、弐分積金弐拾両、上乗、差荷三拾九両壱分、秋味献上弐百八拾壱両」の計一一四〇両程度にとどまっている(子年石狩御場所勘定帳)。
この時期に大きく変化したものに漁法がある。糸網を用いた大規模漁業へと変化している。その漁法のはじまりは、文政二年(一八一九)からとされ、松前藩復領期の最終段階にはイシカリ川の河口よりツイシカリにいたる間の川をいくつかに区切って、網引場の施設が一九カ所も設けられていた。表3に示したのは、安政二年(一八五五)段階のイシカリ秋味漁場での糸大網引場・網数である。一九カ所に分けた網引場は、いわゆる和人網引場と呼ばれている引場で、イシカリ元小家分(運上屋)が二三統、ユウフツ分(山田文右衛門関係出稼場)が一五統といった具合に、合計三八統も大網が用いられていた。この糸大網というのは、「長サ五百尋」、「袋より一脇二脇まで糸網、三脇ハ榀網片手百尋位」の大きさであった。しかも、この網引に従事した人数は、アイヌおよび出稼和人合わせて三五七人であった(村山家資料)。
この一方で、アイヌ専用の網引場が七カ所(ただしこのほかに和人網引場と共用のが一カ所あるので実際は八カ所)あった。その内訳は、表4のごとくであり、網数は五一統にのぼっている。この場合の網は、和人網引場の糸大網と異なり、榀網を用いたもので、漁獲高においては糸大網の方が数倍すぐれていたらしい。しかし、榀網の方は、もっぱらアイヌの飯料用として用いられたものらしく、榀の木の皮を編んで作ったもので、小規模なものであった。
漁法の変化にともないイシカリ漁場の船数も増したようである。安政元年(一八五四)のイシカリ場所の報告によれば、図合船一艘、三半船一八艘、ほっち船三一艘、磯船一二艘、丸木船七〇艘がイシカリ場所にあったと記している(蝦夷誌 函図)。 |