札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第八章 松前藩の復領とイシカリ場所

第一節 復領後の藩政とイシカリ場所

一 復領後の蝦夷地政策

 勤番所に配置された勤番は、藩士が年々交代で勤務についた。その任務のおもなうち、場所請負人の監視とともに請負人がアイヌを使役する当然の代償として行ってきたアイヌの「撫育」も重要な任務のひとつであった。
 まず勤番は、持場内のアイヌに行政側の意志を伝達する手段として、「役土人」を任命した。その選出の方法は、「蝦夷人役儀申渡候節は、惣役夷人共若人物為相撰、元小家にても篤と相糾し、弥相応之者に候得は願書指出、猶又詰合にても吟味いたし候上にて、ヲムシヤ之節申渡候事」(文政壬午西地引渡演説書)というごとく、アイヌの主だったものが相談のうえ選んだ人物を、場所支配人が吟味し、番人より申渡すという形をとっていた。いつ頃より、「役土人」が置かれたかはよくわからないが、イシカリ場所の場合では、天明六年の『蝦夷草紙別録』のあたりから、その存在が知られる。表1は、天明六年(一七八六)、天明~寛政初年、文化四年(一八〇七)、安政元年(一八五四)の記録からイシカリ十三場所の「役土人」名を拾いあげたものである。表をみる限りでも、「役土人」には、乙名(大きなコタンの場合、惣乙名を置いている)、脇乙名小使といった、いわゆる村方三役的な種類があり、その資格には、「役儀可勤筋目之者歟、又は格別差働有之、平正御用向大切に相心得、其上漁業出精いたし候者は、年若たり共其時宜に応じ役儀申付候事」(文政壬午西地引渡演説書)というごとく、年齢とは限らず、行政側の意図に見合った人物が選ばれていたようである。
表-1 イシカリ十三場所のアイヌの三役名(天明6~安政元年)

場所
天明6(1786)
蝦夷草紙別録
天明~寛政初
西蝦夷地分間
文化4(1807)
西蝦夷地日記
安政元(1854)
蝦夷誌
トクヒラ乙 シラシヤマ
脇 ヌカルアシカイ
惣 カネフサ
脇 シリウルシ
小 トリキヲク
乙 イニタン(50歳)
小 イカシトシ(57歳)
乙 サヒテアエノ(50歳)*
脇 タサウク(61歳)*
小 セロツクル(50歳)*
ハッサム乙 イヌシルク
脇 セトトイ
小 トタクトリ
乙 トメカシ
小 イタコトク
惣 トメカウシ
脇 ケタヘカ
小 エカシンヘ
乙 イマサウケ(32歳)
小 コモンタ(45歳)
上サッポロ乙 コタカ
脇 ウレムコ
小 ホレウエ
乙 イコマツ
小 トウバ
惣 ウシヤレンカ
脇 ホロヘンケ
小 ルンメ
乙 イカエテノ(56歳)
小 カ子クシ(57歳)
下サッポロ乙 クウカンテ
脇 ミヤリマコツ
小 トンパチ
乙 ウシヤレンカ
脇 シリカナシ
小 ウレムク
惣小 カネムシ
脇 トツテシユ
惣 クウチンコレ(39歳)
小 モリキツ(34歳)
シノロ乙 サシマタアイノ
脇 エコチヤカル
小 アリレンカ
乙 イトセ
小 アチヤヲコル
惣 イツトセ
脇 ケミアント
小 シヤヒセ
乙 イシレミユ(57歳)
小 イシヨラニ(33歳)
上ツイシカリ乙 シリマウク
小 サケヤシ
乙 シレマフカ
小 サケアン
惣 シレマウカ
脇 レハカシ
小 ウエトカン
乙 イクヲカアエノ(34歳)
小 イハンケ(38歳)
下ツイシカリ乙 セリホクノ
小 ヌカルベコル
 
惣 アリカワ
脇 ヒシウンテ
小 テタリカウリ
乙 ルヒヤンケ(66歳)
小 イカシトイ(40歳)
上ユウバリ乙 イシカイ
脇 サイシラマ
小 ヒセコル
乙 サイシラマ
小 アンラマシテ
惣 サンシラマ
脇 ウシヤテク
小 アンラマシテ
乙 記入なし
小 サンケハロ(57歳)
下ユウバリ乙 イシカイ
脇 サイシラマ
小 ヒセコル
乙 イイキ
小 トフカウ
惣 ハウイリキ
脇 アエノコロベ
小 コボシビク
乙 ユワコヲン(65歳)
小 シリカンチユ(68歳)
上カバタ乙 コミトリ
脇 フミハシ
小 イカリアイノ
乙 コミトリ
小 ウコン
惣 カンヘイ
脇 エカリアイノ
小 マウカクシ
乙 セツカウシ(27歳)
小 イエラムテ(45歳)
下カバタ乙 ヤエチキリコ
脇 ミンナシ
小 アエカラシ
乙 シンナシ
小 フシモモリ
惣 エションコハン
脇 エネレコル
小 チキモロシカ
乙 テツカラン(50歳)
小 トミハセ(35歳)
シュママプ乙 モムアイノ
脇 アヤリヤク
小 コヨカニ
乙 コエカン
小 イチシヤマ
惣 コユカニ
脇 イチサエモン
小 チクヨクシテ
乙 サケイタラ(33歳)
ナイホ乙 ソンハ
小 サマサン
惣 シヤマウサン
脇 ソンハ
乙 タイリキ
小 ケセアマ(33歳)
1.惣は惣乙名、脇は脇乙名、小は小使の略。 2.*印は上川トクヒラの三役。

 「役土人」のおもな仕事は、各場所(コタンにほぼ一致)を代表し、統率するものであったので、勤番所や請負人からの伝達は、すべて申渡しや「撫育」の形で行われ、反対に、「役土人」からの申告によって賑恤、救済、医療、表彰などが行われるしくみになっていた。それゆえに、「役土人」に対する待遇も特別なものがあり、「役土人」の任命、勤番交代、勤番の場所見回りの時に「賜り物」がなされた。
 アイヌの「撫育」方法は、勤番が受持区域を巡回して行う方法と、勤番所へ各場所の「役土人」を招集して行う方法とがあり、オムシャと呼ばれた。オムシャの初源的形態は、知行主知行地アイヌを「介抱」と称して、米、酒、煙草などを交友の印に土産として贈り、アイヌ側からも答礼として産物を贈るといった、まったく対等なものであった。それが、知行主にかわる請負制の導入以降は、アイヌに対して恩恵を施し、制令を伝える支配的な儀式となった。その儀式の際の制令、つまり申渡しとは、復領後のイシカリ場所の場合、およそ次のような内容であった。
 ①法度の趣を守り、上を重んじ、親に孝、夫婦兄弟等仲良くすること。
 ②難船や異国船等を見かけ次第、運上屋へ知らせること。
 ③軽物が近年不足なので、出精するよう一般のアイヌへ心がけるよう伝達すること。
 ④病気手当のため医師を派遣するので、軽い病気の場合でも運上屋や元番屋へ届け出ること。
 ⑤役付きでないアイヌのうち独身の者がいたら、アイヌの三役が世話をし、縁組させること。
 ⑥弁財船が川に入っても、みだりに交易がましいことはしないこと。
 ⑦上流に居住する者で、飯料が足らない者たちのために、毎年越年番人が出かけていって越年飯料を用意しておくので、米、糀等受けとること。他場所から飢饉のためにやってきたアイヌがいたら手当をし、届け出ること。
 ⑧漁事の時はもちろん、平素でも支配人、通詞、番人の指図を受け、働くよう一同に申渡すこと。もし和人が非分のことを行った場合、勤番所へ申出ること。
 ⑨運上屋の者や船方の者へ、アイヌ女性と心安くしてはならないときつく申渡してあるが、もしアイヌ女性と密通するような者がいた場合、支配人、通詞へ申出ること。支配人が聞き入れない場合は勤番所へ申出ること。
 ⑩山林樹木のある場所で野火を焚いてはならないこと(番人円吉蝦夷記)。
 これら申渡しは、すべてアイヌ語でなされたことはいうまでもない。その内容は、幕府直轄時代のそれと同様であったらしいが、時代が下るにしたがって次第に、御用状・人馬継立、逃亡の禁止、他場所への往来の節届け出といった内容も加わって、アイヌの日常生活を規制する内容となっていったようである。
 これら申渡しの伝達と同時に、アイヌに対して酒食の饗応や「賜り物」がなされた。「賜り物」は、ふつう「役土人」や表彰者に限られていたが、イシカリ場所の場合、嘉永三年(一八五〇)からは、毎年一五歳以上の男子にマキリ一枚ずつ、女子に縫針五本ずつを与えることにした。このため、同年はマキリ三〇八枚、針一六七〇本の、人数になおして合計六四一人に「賜り物」がなされたことになる(寅二月西蝦夷地イシカリ御場所蝦夷人別並介抱支配人番人稼方人数仕込品出産物調子書上写 アイヌ政策史所収)。
 オムシャが、場所の勤番の仕事であったのに対し、福山へ呼び寄せたり、藩の重役が巡回して行う謁見礼(おめみえ)があった。幕府直轄時代にアイヌを威圧する手段として盛んに行われたが、復領後も踏襲された。文化十二年(一八一五)、西蝦夷地を五組に分け翌年から順番に福山に上る方法がとられた(御用留 伊達家文書)。しかし、文政元年(一八一八)がイシカリ場所の順番であったが、疱瘡流行のため延期されている。