札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第七章 幕府の蝦夷地調査とイシカリ要害論

第二節 幕府の蝦夷地調査とシコツ越

二 西蝦夷地直轄前後

 文化四年の西蝦夷地の直轄にともない、見回りや警備のために蝦夷地に赴く人びとの往来がますます盛んになった。近藤重蔵西蝦夷地を巡見し、『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』で、西蝦夷地タカシマを要害候補地の一つに掲げたのを受けて(後述)、翌五年幕府は、早速タカシマに砲術指南役井上貫流らを配置させた。
 井上貫流ら一行は、同年八月タカシマでの任務を終え、その帰途イシカリよりシコツ越え道を通っている。その道中日記が『西蝦夷地高島日記』として残されているが、幕吏やアイヌの人びとを見る目が非常に詳細で、他に例をみない描写となっている。イシカリ・ユウフツ間全部の日記を紹介することは非常に長くなるので割愛するが、ツイシカリ、エベツブト付近のみ次に掲げてみよう。
同(八月)廿七日 快晴
明かたにこき出して弐里斗りも行と(ト)マヽタイといふ所に至る。此所にて石狩詰の御役人井上喜右衛門殿に行あひ互に挨拶して昨夜の難義を物語名残おしなから再会を約して別れぬ。爰も絶景にして右の方には小川あり。その流の末に遠くヲタルナイの山見ゆる。夫より程なく津石狩に漕付たり。此所にも運上屋ありしか御奉行始諸家の通行道に付拾弐三軒(間)川上エヘツブトといふ所へ引移候よしにて夷屋斗なり。此所のおとなの内へ入て船頭の持たる少しの米を焚き夷人にも給させ我等も漸盃にて一二はひたへ井爐裏の火にあたりてくつろけは、此内あるしのおとなはしめ老母とおほしきは一人、女房娘弐人物いふことはわからねとも舟頭鹿子夷人ともあつくいたわる体なり。主人イタカシコロマといふものコクワといふ蔓の実を膳にのせ持来り、我々にあたへたり。葡萄のよふにて甘く酸しくてシノケランなり。是は蝦夷言葉にて味よしといふ事なり。扨此舟に此方の荷物の外に積込たる荷物あり。是は何の荷物なるやと舟頭に尋けれハ石狩よりエヘツフトの運上屋へ送る荷物なりといふ。舟頭の存したる事にはなしといへとも、石狩役人ともの不届千万なり。御用舟に自分の荷物を積込、夫故格別に舟重くして昨夜のことき難儀にもおよふ。夷人ともゝ骨折不便なり。以後のみせしめなれハ右の荷物を不残川へ打込みすへしと各いかり侍れハ、舟頭ともひれふし手を合せ何卒御免なし下されと大になけき、荷物此所にて揚させけるまゝゆるしくれ候様ひたすらわひけるゆへ、其儘さし置しかとも、みな/\の気色におそれ、津石狩舟頭なと申合、此所より帰るへきを乗舟してともとも櫓をおしエヘツフトまて付添来りぬ。おかしさのまゝ、
  入荷してきつ石狩にエヘツフト
    蝦夷いひわけは なんと舟頭
 エヘツフト
此所小屋掛なれとも運上屋大きくして、此度会津の城主松平金之助様より蝦夷地御固めの御人数の内六拾人斗此所に泊りのよし。我々も着舟候得は役人磯辺へ出迎泊りやへ案内いたす。昨夜とハ違ひ賑ハしく薄縁八枚敷たる所へ幕を張、其所へ先案内して膳を出す。汁、豆腐、焼物、、沢庵漬の香物也。夕部の難儀を思ひ出し余りの嬉しさに、
  やれ嬉し、今宵は宿をエヘツフト
    ときに会津と、ともに同宿
しはし休みし頃表方にとや/\する音に目覚みれハあとたちの四人なり。我々三人は二日前に立しかとも陸にて難所を越来りし故、此所にて跡立の人々と追付れたり。外に座敷もなき故一所に落合とやかうするうち九ツ時頃にもなりけれは会津家の人々立支度して貝なと吹て賑かなり。跡立四人は此所に逗留故我等三人六時ころ起出て朝飯給へ、直様宿を立てエヘツフト役人石狩川迄送り来る。(後略)

 一行は、先発隊三人で八月二十六日にイシカリを立ち、ツイシカリに到着したが、前年田草川伝次郎らが宿泊した泊小屋(ここでは運上屋と記しているが)はエベツブトに引越してなく、あるのはアイヌの家ばかりであった。ツイシカリの乙名の家では、米を焚いてアイヌにも分け与えたりして昼食をとり、逆にコクワの実をご馳走になったりしている。ここでイシカリ詰の役人が、私的な荷物を公の船に乗せてエベツブトまで運ぼうとしていたことが発覚し、今後の見せしめに川に投げ込まれるところを船頭のひらあやまりでかろうじて救われるといった一幕も目撃している。
 エベツブトの宿泊所は大きく、会津藩蝦夷地警備に派遣されたもののうち六〇人余りが泊まっていた。役人に案内されて、汁、豆腐、焼物、、沢庵漬などの膳の物が出された。寝についた頃、もの音で目を覚ますと後発隊の四人が到着して一緒になった。そうこうするうちに、もはや会津兵の出発時刻となり、後発隊は逗留することとし、先発の三人は六時頃朝食をとり、出立している。
 さらに、エベツブトより先は、千歳川を遡って、「リフンヘツ」で一泊しようとするが、日没のため小屋さえ見つからず、しかたなく陸へ上がって野宿となる。翌朝、昨夜暗くて「リフンヘツ」より一里上流で泊まったことに気付き一同大笑する。それより「フトウ」という、かつてアイヌの小屋があったところに上陸して昼食。さらにイザリブトまで舟を漕ぎ、ここで弁当をととのえ、二日間も遅れたので先を急いで歩行すること五里で千歳会所に到着した。会所は大きく、会津兵もここで同宿した。一行はここで入浴し、膳のものすなわち汁、豆腐、平、のあんかけ、焼物さけ、大根浅漬などを食している。翌朝出立の時の膳のものは、汁、平昆布の子、山椒、大根の香物であった。「チフ」までの二里半は歩行し、「チフ」からユウフツまで五里は舟で下っている。一行はユウフツに三十日に到着したが、ここには会所も数軒あって、いずれも大きく、アイヌの家もたくさんあって繁盛しているようにみえた。
 以上が、井上貫流一行のイシカリより五日かかってのシコツ越えの状況である。
 東西蝦夷地を結ぶ両関門は、直轄とともにさらに交通の要路として人や物の往来が盛んとなり、交通手段をはじめ、宿泊施設なども目に見えて整備されてきているのがうかがわれる。それとともに、幕府の蝦夷地調査や警備等には道案内はもとより、食糧や物資の運搬、船の提供、宿泊施設の賄いといった、交通が発達するにつれてアイヌの人びとの労力を期待する部分が大きくなったことも確かであった。