札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第七章 幕府の蝦夷地調査とイシカリ要害論

第一節 イシカリ川水系と東西連絡路の歴史

二 一八世紀・一九世紀はじめ

 この伐木図(武川家文書 写真3)は、飛驒国出身の材木商飛驒屋久兵衛が、イシカリ山の伐木を一手に請負った時の絵図といわれている。絵図の右端に「[享保十三戊申年ヨリ宝暦九己卯年マテ]唐檜山一手請負伐出之場所」の説明がついているので、享保十三年(一七二八)から宝暦九年(一七五九)の間、伐木に関わった際の絵図であろうか。しかし、飛驒屋イシカリ山に実際に関わった年代が確認されるのは、宝暦二年からのようである。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。
 
写真-3 飛驒屋伐木図(部分) 武川家文書 岐阜県下呂町教育委員会蔵

 この地図は、イシカリ川流域とその支流のサッポロ川上流域、エベツ川上流域のシコツ川シママップ川イザリ川等付近の「伐出場所」を示し、かつその「伐出場所」から、イシカリ川河口まで運送するルート等を詳細に記入している。
 さらに、イシカリ川河口には、「山方運上屋」があって、それぞれの「伐出場所」とをつなぐ通路を川沿いに、あるいは川を横切って朱線で示している。この伐木図によれば、当時「伐出場所」は、イザリ川上流のシコツ山麓のほか、ユウバリ山等であったらしい。
 さらに、その朱線で示している通路を詳しくみてみよう。「山方運上屋」を発した通路には、「山方道」と「川流シ道」の二種類があって、「山方道」の方は、ハッサム川を渡ったところで「川流シ道」と分かれ、サッポロ川に沿って遡り、「ヲシヨシ川」(精進川か)の手前で右から順に「アブ田道」、「米セホイ道」、「シコツ道」の三本に分かれる。一番右の「アブタ道」は、サッポロ川に沿って「テング山」方向に伸び、中央の「米セホイ道」は、「ヲシヨシ川」と「マコマ内川」の中間を通ってイザリ川上流へと出る。また、一番左の「シコツ道」は、「ヲシヨシ川」と平行して進み、「イザリ夷村」付近でイザリ川を横切り、さらにシコツ川を横切って、「ユウブツ」、「シコツ海」すなわち太平洋岸へとつながっている。
 一方、「川流シ道」の方は、エベツ川を遡り、シママップ川イザリ川を遡って、シコツ山麓辺の「伐出場所」に通じている。「伐出場所」付近には、「元小屋、釜小屋、杣小屋(そまごや)、持子小屋、カジ小屋」がみられ、「山方道」の途中の要所要所には、「米セホイ小屋」、「米蔵」、「柾小屋」などもある。また、「川流シ道」のエベツ川のイシカリ川への合流点には、「留場所」があって人家が集まっているように描かれており、その下流には「イカダ繫道」があって、河口の「木場」へと通じている。
 このようにみてくると、この伐木図は「伐出場所」と伐木のための杣夫・鍛冶そのほか大勢の人夫たち、あるいはそこで働く人びとの食糧運搬通路、さらには伐木された材木の河口までの搬送ルートを示したものであることがわかる。「ヲシヨシ川」が現在の精進川であるとすれば、現在の札幌市の中心部付近は、「アブ田道」と「シコツ道」、それに「米セホイ道」のちょうど分岐点にあたることになり、「舟場」や宿泊施設もあって、交通の要衝に位置していたと推測される。また、伐木された材木は、イザリ川上流からシコツ川エベツ川を流送してきて、イシカリ川との合流点の「留場」でイカダに繫がれ、河口の「木場」に搬送された。それより先は、飛驒屋の手船に積み込まれ、江戸・大坂へ移出され、積み残しは、イシカリの「木場」に貯木されていた。
 こうして、この伐木図を手がかりに、一八世紀中頃のイシカリ川とその支流に位置する現在の札幌市域の交通路が知られる。