札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第六章 イシカリ場所の展開と漁業権紛争

第二節 イザリ・ムイザリ漁業権紛争

三 アイヌの訴願から収拾へ

 そうこうしているうちに、文政四年(一八二一)松前藩に再び蝦夷地全島が返還になった。そこで、惣乙名シリコノエは、三度目の訴願を今度は松前藩の支配の下ですることとなった。
 文政五年三月、シリコノエは、小使サエラフニとの連名で、イシカリの支配人源右衛門と通詞平八の奥書を添えて、紛争事件の顛末を縷々書き綴った願書を松前藩イシカリ詰合宛に提出した。要求する内容は、ウライ二カ所の返還である。
 これに対し、同年八月ユウフツ側から回答があった。そのおもな内容は、イザリムイザリのウライ二カ所を返還する条件として、「イシカリ領分川筋ヘウラエ三ケ所之ウラエ拵漁業仕度奉存候」と、ユウフツアイヌのウライをイシカリ川筋に三カ所設置するというものであった。
 結局のところ、松前藩のイシカリ、ユウフツ詰合たちは、長期にわたる紛争事件をアイヌの慣習に任せて両者の協定事項を次のように申し合わせた。
 ①ムイザリのウライは、従来シレマウカ妹モンカラケならびにシレマウカ妻子が、飯料をとって生活してきたので、新しい権利者シリコノエも親類関係であるから、これら老女が存命中はこのウライは従来どおりシリコノエ等の飯料とり場としておくこと。
 ②ウライの利用は、シリコノエ一人があたるのではない。シリコノエには老母があり、倅たちがイシカリに引網に行っている間は、モンカラケの子供たちがウライを拵え、それから得た飯料でその老母を養育するために、従来利用してきたとおりにこれを預けておくこと。
 ③このウライで従来生活してきた老母が死んだのちは、ウライの所有者シリコノエが他人に渡して利用するのも自由であるが、こうなった時も飯料だけはこれまでどおり、千歳・イシカリの区別なく親類に分配し、余剰があった場合にはイシカリ・千歳両運上屋に等分にして差し出すこと。
 ④以上のように決めたのは、シリコノエらが漁に行っていたために、ウライを拵える時節になっても無人であった折、千歳川イザリブト住居のアイヌが老母のところへ立ち寄り、ウライ拵えや種々世話したことがあったので、熟談のうえ双方納得の上であること。
 以上のような内容の、いわば「覚書」を上ツイシカリ惣乙名シリコノエ小使サエラフニとそれにユウフツ惣乙名オリコシマ脇乙名マウケサン、惣小使クツケレノ、並小使トイカクシ、同シヤハシリの連名で、松前藩イシカリ詰吉田右十郎立会のもとに、同年八月二十二日付で取りかわした。こうして、ここに二〇年にわたる紛争事件に決着がついたのである。
 解決の糸口をみてみるならば、上ツイシカリ惣乙名シレマウカの妻が千歳出身であり、老女となって一人残されているものを「介抱」するといった大義名分を前面に掲げたのが特徴であろうか。しかし、イシカリ・ユウフツのそれぞれの請負人をみてみると、二回目の訴願の時イシカリ場所の請負人だった米屋孫兵衛が、三回目の訴願の際にはユウフツ場所の請負人であり、反対に二回目の訴願の時ユウフツ場所の請負人だった阿部屋伝兵衛が、三回目の訴願の際にはイシカリ場所の請負人であったというごとく、アイヌ間の紛争よりは、請負人の利害にからんでいたことは明らかである。蝦夷地、ことにイシカリ場所の産物のおもな生産者であるアイヌの漁業権が、幕府の直轄を契機に無視されたひとつの例である。