第三編 イシカリ場所の成立
第六章 イシカリ場所の展開と漁業権紛争
第二節 イザリ・ムイザリ漁業権紛争
三 アイヌの訴願から収拾へ
西蝦夷地が直轄地となった翌年の文化五年(一八〇八)、上ツイシカリ惣乙名シレマウカは、ウライ没収に際してユウフツ詰の幕吏が言った言葉を頼りに、閏六月十一日付でイシカリ詰合に宛てて最初の願書を提出した(以下『由来記』による)。
その内容は、①ムイザリに以前より所持していたウライ二カ所を、東蝦夷地が直轄になった時没収されてしまったこと、②このウライの所有は、かつて東蝦夷地からアイヌがムイザリに攻めてきた時、ムイザリのアイヌの依頼により上ツイシカリのシレマウカの祖父が償いを出した返礼であることなどを主張したものであった。それと同時に、ウライ没収の影響を、次のように切々と訴えた。 ウラエ御引上ノ後は、無詮方外川々へ参り漁業仕候得共、家内相続も相成兼乍思、持合ノ宝ヲ以干魚買入、是迄家内相続仕候。最早宝もなく尚又先祖より持来ノ家督ヲ散し申訳無御座と存居候処、風と病気に取付、倅共も若年差当り難渋仕候。何卒御憐愍元成ニ被仰付被下置候ヘハ、先祖ノ手前家内も相続仕、難有仕合ニ奉存候。乍恐此段奉願上候。 このごとく、シレマウカ一族の生活は逼迫していた。おまけにシレマウカは病気、子供はまだ幼いという状況で、やむにやまれず、祖先伝来の漁業権復活を求めたのであった。 シレマウカ以外に漁業権を没収された、下ツイシカリのレタリカウクも、同年閏六月二十三日付で下ツイシカリの通詞を通じて、また上ユウバリのアンラマシテ、カシュウシの二人も、やはり同年六月付で上ユウバリの支配人を通じて、漁業権の返還を訴える願書をイシカリ詰役人に宛てて提出した。 これらの訴願に対して、幕吏側も捨ててはおけないので早速取調べを開始した。その結果、ユウフツ場所の惣乙名オツカシレ、イザリ乙名ヌカンランケ、ムイザリ乙名コマワカほか乙名一同は、同年閏六月付で、支配人甚右衛門、通詞与四兵衛と連名で回答を出してきた。それには、シレマウカ等の一件については、「一統其儀は存不申候」とはねつけている。それに続けて、 尤古来より今ニ迄夷人振合として混雑ケ間敷儀は、隣付相互に介合少し宝ヲ以万端取鎮候儀は何れ仕来毎々御座候得共シレマウカ口書を以願出し候儀は私共一同先祖代々より及聞不仕候。(中略)兔角右様之姿ニてシレマウカヘウラエ被置候ては、ムイサリニ住居之者共一統難渋ニも相成候間、兔角是迄之姿ニ御差被置被下度奉願上候。尤シレマウカ家内難儀之趣願出候ハヽ飯魚のミ被仰付、ウラヰ幷産物ムイサリにて漁業致し候儀ニ御座候得は、以来ムイサリに入漁業仕候ては、畢竟違乱事ニ御座候 と、もしシレマウカにウライを許可したらムイザリアイヌの生活が困窮するので、このままにして置いて欲しい。シレマウカの家族が困窮のために願い出るようなことがあれば、飯料だけにして、ムイザリでの漁業は迷惑なことであると主張した。 一方、下ツイシカリのレタリカウクの訴願に対しても、ユウフツ場所惣乙名オツカシレはじめ「役土人」と支配人、通詞の連名で、入漁についてあくまで断る回答を出した。その理由として、①イザリ場所の小川を貸したことは確かではあるが、知行主である今井新右衛門に内緒にして貸したので、請負人より叱責されたこと、②近年ユウフツ、千歳川の漁場も不漁が続いて、ためにユウフツアイヌ一同が産物のみならず飯料さえ欠乏の始末であることなどを掲げている。残る上ユウバリのアンラマシテ、上ツイシカリのカシュウシ等の訴願についても、同様な理由ではねつけている。 このように、西蝦夷地直轄後のシレマウカらの最初の訴願は不成功に終わった。それは、ウライの所有権あるいは干鮭場への漁業権については、アイヌの慣習をこの際まったく無視した態度に出たことと、それといまひとつ近年の不漁続きが原因であった。しかし、これらの訴訟事件は表面上イシカリアイヌとユウフツアイヌの対決のごとく記されているが、内実はユウフツ詰の幕吏であり、ユウフツ各場所の支配人・通詞たちの思惑が働いていたとみないわけにはいかない。もしイシカリ場所内のアイヌに、ユウフツ場所内に入漁を許可した場合、その産物をイシカリ場所に持ち去られるといった産物の量にかかわる問題でもあったからである。後述するようにかつて、シレマウカのムイザリのウライからは、年によって異なるが干鮭一四〇〇~一五〇〇束がイシカリの運上屋に収納されたこともあった。
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