札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第六章 イシカリ場所の展開と漁業権紛争

第一節 イシカリ場所の展開

二 集約されるアイヌの人びと

 前述したごとく、この時期のイシカリ十三場所における人口数を見た限りでも、人口把握のあり方に異常さがうかがわれた。
 ところで、人口把握のあり方が、果たしてアイヌの当時の生活実態を反映したものだったろうか。また、人口集住をうながした要因は何だったのだろうか。次に『土人由来記』から事例を掲げてみたい。
  ①上ツイシカリアイヌの人別
 文化十年(一八一三)、上ツイシカリの通詞幸吉以下三人が、上ツイシカリの人別調査を行ったところ、かつて、家数三七戸、人数一四八人が住んでいたことになっていたが、当時実際に住んでいるものは誰もいなかった。この上ツイシカリは、東蝦夷地が直轄になって以来、上ツイシカリ惣乙名(そうおとな)シレマウカが所有するイザリのウライが没収されるなど、その事件が契機で、シレマウカ一族はイザリブトや、ハッサム、トウベツブトへ移住していくことを余儀なくされたらしい。その人数は、一一戸、三三人である。ところが、上ツイシカリの人別に入っていた二六戸、一〇五人というのは、もとテシオ場所のアイヌで、上ツイシカリ知行主も兼ねていた松前勇馬の持分であったが、かつて不漁のためイシカリ川流域に引越しさせたらしい。支配人も一人で兼ねさせる状態で、そのまま住まわせておいたところ、ちょうど人別改めがあり、実際は上川に住んでいるのに、上ツイシカリの人別に入れてしまったというのである。しかしこの場合、上ツイシカリの人別に入れたことで請負人は、上ツイシカリの名を使った利権を継続できることになる。そうなれば、場所区分は名目のみで、実態はどうでもよかったのかもしれない。同じ『土人由来記』に、ツイシカリ場所を上と下に分けた時、知行主の家格の上、下で決めたとあり、ただ交易相手を混同しないようにとの対策がとられればよかったようである。このような傾向は、請負人が複数場所を経営するにおよんで、場所区分も、人別把握の実態も合わなくなり、名目上だけの十三場所が以後記録の上に残ることとなる。
  ②トクヒラ以下五場所の人別
 表1で示したように、この時期の請負のかたちは、より資本の大きい請負人へと移る傾向にあり、米屋孫兵衛の場合のように、最初四場所であったが、文化六年にはトクヒラ以下五場所に拡大されている。複数の広域の請負になったためか、同七年のアイヌの人口把握においては、五場所まとめて何人(表3)といったまとめ書きとなっている。このことは、一人の請負人のおよぶ範囲が複数の広域な場所になるにしたがい、場所ごとの人口把握が意味を持たなくなり、したがってアイヌの生活領域もそれに合わせたかたちに変化していったようである。たとえば、時代は下がるが、松浦武四郎が安政四年の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』に合場所(入会場所)のことについて触れている。それによればシママップ場所はむかしより五場所の合場所であり、海浜の漁が終わると、五場所のアイヌが干とりにやってくるところであった。したがって、「人別も其に組入有し由也」と、五場所の人別まとめ書きを裏づけるような書き方をしている。場所の区分がすでに実態のないものへと変化してしまった例である。
  ③鯡漁秋味漁への労働力の集約
 アイヌを、さらに場所外の労働へと押し出す原動力となったと思われるものに、鯡漁がある。十三場所の出産物のところでみてきたように、十三場所の各場所が、鯡漁のための図合船を一~二艘ずつ所持し、差荷物のなかには、鯡に関する品々が多く含まれていた。このような、イシカリ場所内のアイヌ鯡漁への出稼は、川口のアイヌの場合は以前から行われていたようであるが、この当時すでに海浜に面していないアイヌまでが鯡漁に恒常的に参加するような労働形態に変化していたようである。このことは、文化四年(一八〇七)の近藤重蔵の『書付』にも、「イシカリ十三ケ場所夷人も早春鯡取ニ役所へ集り候」と、鯡漁出稼に集められている様子を記している。
 こういった、アイヌが自己の居住する場所内の産物のみでなしに、海浜の漁業、それもかなり離れた鯡漁場への出稼といった労働形態は、この時期よりはもっと以前からあったかもしれない。ともかく、この時期に十三場所各場所から何人かずつを鯡漁へ参加させるといった、いわゆる集約的労働力の利用が日常化しつつあったことは確かのようである。
 秋味漁においてはどうであったろうか。この時期の秋味請負のかたちは、前述したように、夏商秋味請負ともに同一請負人が請負い、おまけに網の導入により一度に大量の労働力を必要とした。このことは、請負人によって意図的に労働力として集められた場合と、自発的に集まってきた場合と二通りあると思われるが、いずれにせよ網引場のある川口のトクヒラの人口を急増させたことも確かである(表3)。近藤重蔵の前掲史料に、「他場所ノ夷人飢渇等ノ時イシカリヘマイリ永住仕候者モ有之。又秋味漁事ヨリ引続永住ノ者モ有之。既ニ当時ソウヤ領ノ夷人五六十人イシカリ筋へ参リ所々ニ永住ノ者モ有之。是等ヲ集メ一村取立候テモ宜敷程ノ事ニ御座候」とあるのは、請負人の意志とは一見無関係なようにさえうかがわれる。それは、たまたま近藤重蔵がイシカリに着目した理由が、防衛上の観点から川口に集住しているアイヌの人的資源に目を向けたにすぎず、請負人の意図のもとに集められているか否かにはあまり関心を持っていなかったからではなかろうか。
 このようにみてくると、人口把握が必ずしも当時のアイヌの生活実態を反映したものとはいい難く、請負人次第でどうにでもなる一面も持っていた。川口付近のアイヌ人口の急増は、イシカリ川の上流・中流域に住む人別帳に入っていない人びとや他場所からの流入人口も呑み込んだ数字であったかもしれない。この時期を境にアイヌは、次第に社会生活領域面まで自己の意志とは無関係に、労働力を集約して利用しようとする請負人の管理下におかれるようになる。