札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第五章 幕府とイシカリ

第二節 西蝦夷地の直轄とイシカリ

二 西蝦夷地の直轄と警備

 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と判明)が一隻福山沖にあらわれ、箱館沖を通過したので、付近の住民たちは緊迫感につつまれた。この報は、たちまちユウフツの千人同心の開墾場にも伝えられ、このため多くの女性や子供が千歳会所に避難していたことは、通りがかった弘前藩士山崎半蔵も目撃している(宗谷詰合山崎半蔵日誌)。ユウフツとイシカリとを結ぶ東西連絡路のシコツ越え道は、この事件の結果警備のために任地へ赴く幕吏や諸藩士が頻繁に往来するようになり、イシカリを通行する人々も多くなった。
 フヴォストフらによる文化三、四年にわたるカラフト、千島、さらにリシリ島への襲撃は、文化四年全島直轄なったばかりの幕府にとって、かなり衝撃的な事件であった。
 幕府では、襲撃事件の報が江戸に達すると、これに対応して文化四年六月四日、目付遠山景晋、使番小菅正容、村上義雄に、ロシア船渡来につき蝦夷地出張を命じ、また若年寄堀田摂津守正敦にも出張を命じた。
 堀田正敦は、同年八月二日、ロシア船渡来につき蝦夷地見回りを東西に分かれて行うこととした。この時西蝦夷地リシリ島辺までの見回りには、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎が命じられ、この調査でイシカリがにわかに重要視されることとなる。
 三人は、部下を引き連れて八月七日箱館を出立。江差、オタスツ、オタルナイを見回り、イシカリには九月一日「夕七半時」に到着した。一行の一人田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』には、イシカリ十三場所の知行主、請負人、支配人アイヌ人口、アイヌの三役名、運上金等まで書き出してある。表3は、それらを場所ごとに並べたものである。表によれば、トクヒラとナイホが直場所で、残る一一場所は藩士の知行場所となっており、それぞれ請負人に任されていることが知られる。しかし、この知行地は、まもなく松前藩の転封によって、藩士の知行地ではなく、幕府直営の請負方式に変わっていくこととなる。
表-3 文化4年イシカリ十三場所 請負人・運上金アイヌ人口
場所名知行主請負人・支配人運上金持舟アイヌ人口アイヌの三役名
トクヒラ手場所米屋孫兵衛、支 儀兵衛100両図合船 2艘815人惣 カネフサ 脇 シリウルシ 小 トリキヲク
上ミツエシカリ松前彦三郎米屋孫兵衛、支 儀兵衛60図合船 1106シレマウカ 脇 レハカシ 小 ウエトカン
ハツシヤフ酒井伊兵衛米屋孫兵衛、支 儀兵衛50図合船 134惣 トメカウシ 脇 ケタヘカ 小 エカシンヘ
下モカハタ土屋高八請 京屋勘次郎、支 宗太郎40図合船 195惣 エシヨンコハン 脇 エネレコル 小 チキモロシカ
下ユウバリ蠣崎佐兵衛請 通 近江屋利八50図合船 2154惣 ハウイリキ 脇 アエノコロベ 小 コボシビク
上カバタ佐藤彦八請 相野屋伊兵衛、支 源五郎120図合船 1348惣 カンヘイ 脇 エカリアイノ 小 マウカクシ
シマウフ下国脇米屋孫兵衛、支 儀兵衛45図合船 155惣 コユカニ 脇 イチサエモン 小 チクヨクシテ
下ツイシカリ松崎多門請 支 直次郎50図合船 1惣 アリカワ 脇 ヒシウンテ 小 テタリカウリ
下さつほろ目谷安次郎請 支 京極屋嘉兵衛70図合船 2119惣 小 カネムシ 脇 トツテシユ
上ユウハリ松前鉄五郎請 通 宮本屋弥八47図合船 1123惣 サンシラマ 脇 ウシヤテク 小 アンラマシテ
上サッポロ南条郡平浜屋甚七、支 藤三郎70図合船 2187惣 ウシヤレンカ 脇 ホロヘンケ 小 ルンメ
シノロ高橋壮八請 支 筑前屋清右衛門50図合船 1125惣 イツトセ 脇 ケミアント 小 シヤヒセ
ナイホウ手場所請 支 梶浦屋吉平25図合船 128惣 シヤマウサン 脇 ソンハ 乙 タイリキ
運上金計 777両アイヌ人口計     2,285人
1.運上金は鯡そのほか。トクヒラのみ鱒手限金70両。アイヌ人口計は、史料のままを記した。
2.秋味は領主直場所で積石高6,500石ずつ、栖原屋引請。
3.請は請負人、通は通詞、支は支配人、惣は惣乙名、脇は脇乙名、小は小使。乙は乙名の略。
4.田草川伝次郎西蝦夷地日記』より作成。

 田草川ら一行が通ったイシカリは、ちょうど秋味の最中で、弁財船一五、六艘が川の中に繫いであり、川端には大きな小屋が数棟も作られていた。ちょうど川筋の浜通りでは、アイヌが網引をしていて、なかなか賑やかであった。イシカリは、鯡(にしん)のほかが中心で、秋味はすべて藩主直場所で、石高にして六五〇〇石ずつ、年々栖原屋が請負っていた。栖原屋は川や浜でとった秋味を直接アイヌと交易するようになっていて、各場所の請負人たちは一向に手出しができない始末で、通詞一人ずつを船ごとに借りるようになっていた。アイヌが、船に秋味を荷物として積み込んでしまったあとは、どこでも自分稼秋味が自由で、助け合って食糧をとるといった状況であった。
 一方、イシカリの漁獲高は、七、八年以前までは、年々一万二〇〇〇石ずつであったが、当時不漁になっていたので、六五〇〇石になっていた。三〇〇束(一束二〇本=六〇〇〇本)を一〇〇石目と計算してである。
 ところで、田草川と行動をともにした近藤重蔵は、イシカリをまた別の角度から見ていた。九月一日付で、用状を福山の遠山景晋宛に差し出し、熊石よりイシカリまでの間に気付いた点を縷々述べている。
 一行は、西海岸を目的地に向かって北上するが、リシリ島へは波が高くて渡ることができず、リシリ島から逃げ帰った者の話を聞くにとどまった。それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、イシカリまで戻り、イシカリ川よりシコツ越え道を通って東海岸へ抜けたが、近藤重蔵のみは、テシオ川を遡り、それよりイシカリ川上流に出て、イシカリ川を下るコースをとった。近藤重蔵は、この時の調査で得た体験をもとに、『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』を幕府に提出し、イシカリ付近の重要性を説いたが、これについては、第七章で詳述したい。
 西蝦夷地直轄後の警備は、前述のようにロシア人の襲撃事件もあり、弘前・盛岡・久保田・酒田藩から三〇〇〇人余が、箱館、サワラ、ウラカワ、アッケシ、ネモロ、クナシリ、福山、江差、ソウヤ、シャリに分遣された。
 一方、松前奉行も、幕吏を西蝦夷地の場合、ウスベツよりイワナイ間に調役以下一一人、フルウよりアツタの間調役並以下九人、ハママシケよりフレベツの間調役以下一二人、テシオよりソウヤの間調役以下一三人、モンベツよりシャリの間調役以下一〇人をそれぞれ配置と決定した。
 翌五年、これら幕吏のほか、蝦夷地警備として、仙台藩兵二〇〇〇人、会津藩兵一五〇〇人、弘前藩兵二五〇人、盛岡藩兵二五〇人が動員され、西蝦夷地には、会津藩がカラフト、ソウヤ、シャリに、弘前藩がテシオよりマシケ、タカシマより熊石の間に詰め、イシカリ、リシリには幕吏が詰めていた。
 同六年以降は、毎年盛岡藩より六五〇人、弘前藩より四五〇人を出兵させ、西蝦夷地は弘前藩に守備させた。『津軽藩士石郷岡伝内諸事覚』(函図)によれば、同六年には、惣大将以下足軽まで総勢一八九人がイシカリ詰として派遣されていたことがわかる。
 一方、文化四年に幕吏近藤重蔵が重要視したタカシマには、同六年、幕府砲術指南役井上貫流以下八人が警備についたが、ロシア船はついにあらわれなかった(西蝦夷地高島日記)。