第三編 イシカリ場所の成立
第四章 イシカリ十三場所の成立
第二節 場所請負制の成立と十三場所
三 天明・寛政期
イシカリの夏商場所である、いわゆる「イシカリ十三場所」は、天明期以降になると場所名と知行主名とが対になって記録されるようになる。表6は、天明六年『西蝦夷地場所地名産物方程控』(以下『産物方程控』と略記)に記録されて以来、寛政四年『東西蝦夷地場所附』(武川家文書)にいたる七種類の史料から、知行主名を軸とし、場所名、請負人名、運上金等を拾いあげたものである。
表6にあげた史料のごとく、イシカリの場所数を「イシカリ十三ケ所」というようにくくって記述するようになったのは、この時期からで、それ以前にそういった呼び方はない。しかし、場所数において差異があり、『松前志』(国公文)と『北藩風土記』では「イシカリ十三ケ所」、『産物方程控』では、「石狩拾弐ケ所」、また『松前随商録』および『東西蝦夷地場所附』では、ともに「石狩拾六ケ所」と数えている。このように、イシカリ場所を家臣に給与した知行主の数は一二人で、藩主を入れても一三人で一定しているはずであるのに、場所名等も合わせて疑問点がある。 まず場所数であるが、『松前随商録』でみると、「従是石狩十六箇所の部」として表示した一五場所をあげるとともに、佐藤権左衛門の知行場所を、上カバタとトヨヒラの二場所にあげている。さらに、カムイコウタンの所では、「右は川上也、領主御台所弐ケ所」と記しているので、合計すると「十六箇所」となって一致する。このうちトヨヒラは、上カバタのうちの「小名(字名)」であるから、これは同一場所とみてよいだろう。それに、カムイコウタンをあげている史料は、『松前随商録』、『松前志』、『北藩風土記』の三種で、その前後の史料には記されていない。カムイコウタンを、イシカリの「川上」にある「領主御台所」としているところをみると、川口のトクヒラの藩主直場所と関わりを持ち、かつ運上金も一括扱いのところをみると、藩主直場所は一つであるから、川上分がトクヒラに吸収されていった可能性も考えられる。これらの点を考慮すると、藩主直場所が一場所、藩士知行場所が一二場所の計一三場所というかたちが、夏商場所の基本であったと考えるのが妥当であろう。 また、おそらくサッポロ川流域に位置していたと思われる、小林、目谷、高橋、南条等四人の知行場所名に、交錯が見られる。その一つモマフシは、『北藩風土記』では、シノロに含まれる「小名」としているし、『松前志』では、下シノロとならべてあげ、「小名」のような記し方をしている。さらに『天保郷帳』では、「イシカリ持場之内」のコトニとナイホ(ナイボ・ナイホウ)の間に「モマニウシ」をあげている。となれば、ナイホに近い場所といってよいだろう。 「チイカルシ」、あるいは「ツフカルイシ」は、イシカリ川上流域の地名を指すようで、『西蝦夷地分間』(東大史)は、イシカリ川口より三二里上流としている。また、松浦武四郎の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』では、ウリウ(雨竜)川を遡ったウリウとイチャンの間を「中川」と呼び、そこに住むアイヌを「シノロアイヌ」と呼ぶというようなことを記しているので、この辺のアイヌが下流のシノロ辺へ下っていって漁をするなどのかたちで、下流域とも関係が深く、それでサッポロ川流域の地名とならんで「チイカルシ」、「ツフカルイシ」(アイヌ語で中川の意)が出てきたとの見解もある。しかし、管見した限りでは、イシカリ川上流域に、これに類する地名を記録した史料はみあたらない。 上サッポロ・下サッポロについては、おそらく場所が近接しているため、地名の交錯、上・下の混同、誤記が少なからずあったとみるべきだろう。 このように、イシカリの夏商場所の記述のしかたからみても、夏商場所は、享保年代以後、藩士の知行主一二家の一二場所と、藩主の直場所とからなる、いわゆる「イシカリ十三場所」が記録の上からも定着したとみることができよう。 また、請負人は、『産物方程控』では、近江商人系は天満屋、大和屋、浜屋の三軒のみで、あとは阿部屋をはじめ新興商人が多い。それが、『西蝦夷地分間』段階になると、近江商人では天満屋、浜屋はしりぞき、代わりに近江屋、恵比須屋が入るなど、相当に入れ替わりがみられる。不漁とも関係するのであろう。 一方、運上金においてはどうであろう。『産物方程控』と『西蝦夷地分間』段階では、わずか数年間の違いと思われるが、運上金合計は、前者が三一六両に対し、後者は五〇七両と、一・六倍を示し、請負人ごとの運上金額では、前者は阿部屋、小林屋、大和屋だったのに対し、後者は大黒屋の進出が目立つ。生産高と、流通部門に変化があったのかもしれない。 |