第三編 イシカリ場所の成立
第四章 イシカリ十三場所の成立
第二節 場所請負制の成立と十三場所
二 宝暦・明和・安永期
(1) 飛驒屋の場合
蝦夷檜山請負の権利をまったく失った飛驒屋は、当然のことながら、これまでの運上金の先納分、御用金などの返済を藩に要求したことはいうまでもない。しかし藩は、約束をしたのに実行しなかった。そうこうしているうちに明和七年(一七七〇)には、飛驒屋が伐り出した貯木分の材木を新宮屋に渡してしまうといった事態も生じ、このため飛驒屋の藩への請求額は、先納金二〇〇〇両、御用金二七九五両、材木代金二三〇〇両、江戸藩邸への上納金一〇八八両の合計八一八三両にものぼった。これに対し藩側は、明和八年あらためて一カ年五〇〇両ずつの年賦返済を約束したが、これも果たされずじまいであった。
ようやく安永二年(一七七三)藩側は、飛驒屋の藩への貸金八一八三両のうち、二七八三両は冥加として献上、残金五四〇〇両の引当として、翌三年より二〇カ年間エトモ、アッケシ、キイタップ、クナシリの四場所の夏商を運上金二七〇両で請負わせることで決着をつけた。いずれも藩主直場所である。さらに同四年には、同二年に山請負の権利が一時飛驒屋にもどった時の貸付金、すなわち幕府払下米代一三〇〇両、その利息一五六両、「石狩山杣入惣仕込金高」一四〇〇両の計二八五六両の新しい貸付金の引当として、ソウヤ場所が運上金一九〇両で一五カ年間の約束で飛驒屋の請負となった(武川家文書 安永二年巳九月六日乍恐以書付奉願上候事)。 以上は、イシカリ山請負の営業の結果、藩との財政上の関係から、ついには藩主直場所の請負へと変化していった例である。 ところで飛驒屋は、イシカリ山請負のかたわら、イシカリの夏商の下請を行っていた形跡がある。武川家文書の宝暦三年『松前附届書留控』中の「石狩夏商場所指荷覚」からうかがわれることであるが、それによれば、イシカリ場所に「地頭」(知行主)一二人がいて、それら「地頭」から支配を請負う形で大黒屋と工藤忠左衛門の二人が運上金を納入している。一二人の「地頭」の場所名の記入はないが、のちの史料によっておおよその場所は判明できる。表4は、武川家文書から地頭名、運上金、指荷(請負人から知行主への贈物)とを書き抜いたものである。これによれば、イシカリ場所夏商の運上金は二八六両と指荷の品々で、一二場所のうち大黒屋が三場所を、残り九場所を工藤忠左衛門が支配していたようである。しかもこの文書が飛驒屋側にあるところから、表向きは二人の請負人であっても、実際の経営権は飛驒屋が握っていたとも考えられる。
さらにそういった事実を裏付けるかのように、飛驒屋の勘定帳である『惣元立指引目録』の宝暦八年分以降には、毎年のように夏商運上金と夏商仕入金の項目がみられる。たとえば宝暦八年の場合でも、 というごとく、イシカリ場所夏商運上金の翌年分、すなわち宝暦九年分の納入がみられるし、「商場残り物代」(跡買い分)、「秋味囲切入方」等がみられる。表5は、宝暦八年より飛驒屋が山請負を返上する明和六年(一七六九)の前年までの、飛驒屋のイシカリ場所における夏商の運上金、場所仕入金を『惣元立指引目録』より書き抜いたものである。この表をみた限りでは、飛驒屋が夏商の請負を通してどれだけの利益があがっていたか、またイシカリ場所夏商全体にしめる位置づけなどはわからない。しかし、大黒屋や工藤忠左衛門といった名目上の請負人に肩代わりする形で事実上は、イシカリ場所夏商の幾分かの経営を任されていたとみることは可能ではなかろうか。ただし、秋味漁にはあまり関わっていなかったと思われる。
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