第三編 イシカリ場所の成立
第四章 イシカリ十三場所の成立
第二節 場所請負制の成立と十三場所
一 享保・元文期
イシカリ川における秋味、すなわち「生鮭」交易の権利は、前述したように藩主に属しており、後述するイシカリ十三場所の夏商の権利とは、あきらかに異にしていた。元禄年代(一六八八~一七〇三)にすでにみられた、秋味交易の権利を特定商人に請負わせる方式は、次の正徳年代(一七一一~一五)の記録で一層あきらかとなる。
あきやじ川と申大河御座候。鮭、数の子とれ申候。此所川のへりに杭を打、是から何百両、是から是へ何百両と仕切申候て簗をかけ、鮭など取申候。殿様へ金子を上げ、津軽其外の商人共御請負申候。是斗にても夥敷御金の上り申事に御座候。 (エトロフ島漂着記) このなかの「あきやじ川」というのが、どうやらイシカリ川を指していると思われ、そうなれば、イシカリ川の川べりをいくつかに区切り、簗をしかけて秋味をとる様子を示したものであろうか。しかも、藩主へ運上金を納入し、津軽やそのほかの商人たちが請負っている様子さえみられる。 享保年代(一七一六~三五)以降になると、前代同様に秋味請負が続けられていたらしく、西川伝右衛門家文書に「石狩秋味両艘百五拾両一ケ年被仰付」(万永代覚帳 元文五年)といった記述がみられるようになる。このような記述は、同文書の享保・元文・延享にわたって何回かみられ、この場合契約は、船数で一、二艘から四艘へ、年限も一年から三年へと規模を大きくしていった様子さえうかがわれる(表1参照)。イシカリの秋味請負の方式が、まとまった大きな金額の請負へと変化する傾向にあったのかもしれない。また、「石狩跡買」といって制限一杯をとった後、なお鮭漁があればこの権利を買う方式、したがって漁期を延長しての産出量の増大をねらった請負契約も生まれている。
西川家のイシカリ秋味請負は、延享二年(一七四五)から四年の間の運上金二八三八両、秋味船四艘をもって請負ったのを最後に、以後はみられない。西川家に代わる別の商人層の進出があったものであろうか。 ちなみに、元文年代(一七三六~四〇)における蝦夷地の鮭の産出量を『蝦夷商賈聞書』からみると、表2のごとくである。産出量の第一位が、「石狩川」の二八〇〇石、つづいてマシケ、トママイの各二七〇〇石というように、産地が西蝦夷地に集中し、しかも、イシカリ川が蝦夷地随一の鮭の産地であったことが知られる。
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