札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第三編 イシカリ場所の成立

第三章 蝦夷地支配体制の展開

第一節 シャクシャインの蜂起

二 アイヌ蜂起

 シャクシャインの側には娘婿になっていた越後の庄太夫ほか庄内の作右衛門、尾張の市左衛門、最上の助之丞らの鷹待がおり、彼等の画策もあって、シャクシャインオニビシ派の動揺を利用し、松前よりの酒や食物に毒を入れ、アイヌ共を皆殺しにする話をかねて聞いたとして、〝我々は何の罪もないのに、この頃蝦夷地へ来る商船は米・煙草に毒を入れてアイヌを総じて殺してしまい、なお生き残ったものは切り殺すという話を聞いた。このようなことは誠に迷惑の話、カラフト島、ラッコ島の者も我等に味方している。まず蝦夷地にいる鷹待、当地へ来る船の船頭、水夫らを殺し、その上国縫(くんぬい)(当時関所でもあり、利別川の砂金掘の根拠地でもあった)にいる金掘をも殺し、彼らの持っている米、塩、味噌などを取って兵粮とし、東西のアイヌが幾万と限りなく松前へ攻め上るから、皆々我々に味方せよ〟と、西蝦夷地には「ちめんは」、東蝦夷地へは「うえんするし」を派して触れまわし、両人は「味方しない者は人間(シャモ)より先に打殺し、松前へ攻め登る」とアイヌ仲間に一味を強要した。
 このシャクシャイン和人襲撃の檄(げき)に答えて、寛文九年(一六六五)六月、東はシラヌカ、西はマシケに至るアイヌの多くは、一斉に蜂起し、蝦夷地にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待金掘を殺戮し、東西蝦夷地で相果てた人数は『津軽一統志』(青森県叢書)の記すところは左のようであった。
 当度、松前より下口へ参り候。舟々松前の鷹船一艘シコツト申所にて打殺申候由、当六月廿二日松前へ申来候。右鷹船の鷹師吉兵衛上下弐人、善兵衛上下弐人、船頭水主八人、都合十弐人。
 シラヲイにて九人
 三石にて十人
 ホロヘツにて弐拾人此外鷹師上下三人
 ホロイツ〔ミ〕にて拾壱人
 トカチにて拾七人 此外鷹師上下三人
 ヲンヘツにて拾五人
 シラン(ヌ)カにて拾参人
鷹師金掘之者百人余、都合弐百拾弐人相果候事
 (中略)
 上の国にて殺れ候人数の覚
 ヲタスツにて弐人
 イソヤにて弐拾人
 シリフカにて三拾人
 与市ニテ四拾三人
 ヘ(フ)ルヒラにて拾八人
 シクツシにて七人
 マシケにて弐拾三人
都合百四十三人相果る

 なお『蝦夷蜂起』によれば、殺された人々は、西蝦夷地では一二〇人のうち、他国者八二人、松前者三八人、東蝦夷地では一五三人のうち、他国者一一六人、松前者三七人とある。
 シャクシャインの檄に応じて、東西の蝦夷が商船などを襲撃して和人を殺害した底意は、寛文十年(一六七〇)しりふか(岩内)の大将カンニシコル弘前(津軽)藩士に語ったところによると、
去年拙者共人殺し申子細は、前々志摩様御代には、米弐斗入之大俵にて、干五束(一束は二〇本)宛御取替被成候。近年蔵人仕置に罷成、米七、八升入にて干五束宛に御取替被成候得共、蝦夷共儀に候得は、不及是非其通に差上申候。余り迷惑に存近年は度々御訴訟申上候得共、年寄たる蝦夷共我儘申候間、どくの酒にて年寄蝦夷之分御たやし、若蝦夷斗に可被成御相談にて、はし/\にて右之酒にて相果候由、及承しりふかの蝦夷共気遣に存、御酒も不申受、迚もケ様に御たくみ被成候ては、末/\御たやし可被成と存候処、下之国にて毒之酒にてあまた相果候由承、然らばしやくしや犬も商舟殺申由承、上之国にても迚ものかれぬ事と存、しやも船殺申候。御慈悲さへ御座候はゞ何しに此方より左様之儀可仕候や、此段高岡之殿様え御披露被下度由申候。

なお続けて話すには、
近年は蝦夷あち商に松前より御越候間、拙者取候川にて大あみおろし、すきと御取、上方え商に御越成候に付、左様被成候ては蝦夷共取申無御座候。偈(ママ)死申候間、拙者共にとらせ御買被下度由、衆之御訴訟申上候得は、松前之知行所にては聞取申に我儘申とて御うちたたき、其迄にて少も拙者共取申やすく御買被成候得は、何共迷惑仕候。ケ様之事付て蝦夷共一揆を発申候。
(津軽一統志 青森県叢書)

 西のアイヌシャクシャインの檄に呼応した理由は右の語で明らかである。