札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第1巻 通史1

第二編 先史の札幌

第三章 縄文時代

第三節 後期

二 遺構

 北海道内の後期の墓制の大まかな変遷を見ると、次のようになる。
 後期初頭には、渡島半島では、すでに環状列石と呼ばれる墓が出現するが、現在のところ、その発見例が少ないために一般的なものと考えることができない。後期前葉の終わり頃には、有名な秋田県大湯環状列石が出現するが、北海道で環状列石が一般化するのは、後期中葉になってからのことである。市内にも見られたように、道央部に濃密に分布している。環状列石といっても、すべてが同一の形態ではなく、いわゆる日時計の形となるもの、土壙墓の上部に環状の配石を持つもの、長径三〇メートルの大きさの楕円形に割り石を並べたものなどが見られる。
 配石の下にはまったく墓壙の掘り込まれないものも見られるが、多くは二メートル前後の方形、不整形の墓壙が掘られ、壙底部に石敷の見られる例もある。
 この時期になると副葬品の種類も多くなり、土器、石器の他にヒスイ玉、朱漆弓などが出土する。
 後期末葉の初め頃には、古くは環状土籬と名づけられ、その後、恵庭市で全面発掘が実施され、全国的にも注目を集め周堤墓、円形区画墓、円形竪穴墓などと呼び改められた形態の墓が石狩低地帯を中心に数多く見られるようになる。一〇メートル内外の円形の竪穴を掘り、周囲に排土を土堤状に積み、内部に墓壙を構築する。墓壙の数は、竪穴の大きさにもより異なるが多くは一〇個から二〇個前後である。各墓壙の大きさは、長軸一~二メートル、短軸が七〇センチメートル前後で方形に近い形である。深さも一メートル前後が多い。墓壙には、石や木製の墓標をたてたと推定される痕跡もある。
 副葬品は、土器、石鏃、石斧などの他に、石棒、石製玉、漆塗りの弓、クシなど多様であり、ベンガラの塗布により人骨が真っ赤になっている例も見られる。
 終末では、環状列石、周堤墓のような区画墓の形態が崩れ、長径一~二メートルの楕円または長方形の墓壙の上部に積石を持つ形態の積石墓が見られるようになる。
 副葬品は、土器、石器のほかに漆器、クシ、土製・石製の玉類が多く見られる。また多くにベンガラを使用している。
 遺体の埋葬法は、環状列石、周堤墓、積石墓では、遺体の手足を伸ばした伸展葬であると思われる。市内から発見される土壙墓は、その大きさから必ずしも伸展葬であると断定しえない。千歳市内の遺跡でも周堤墓以外の土壙墓では、手足を曲げて埋葬する屈葬が見られるところから、屈葬により埋葬されたとも考えられる。
 環状列石、周堤墓などのいわゆる集団区画墓は、後期の墓のすべてに見られる形態ではなく、居住環境の良好で、拠点的な集落の営まれた地域にのみ構築されたのであり、それゆえに、札幌市内でも発寒、白石などの後期の中心的な遺跡の見られる地域にのみ存在したのであろう。
 また、このような墓制の変遷は、中期末からの気候変動に伴い大きく変化する社会と、その再編成期に見られる現象であるといえよう。すなわち、狩猟・漁撈・採集を中心として繁栄を続けていた縄文社会が、中期末からの気候の変化により、社会の維持が困難となり、人口が激減する事態を招くこととなった。その危機を乗り切るためには指導者の地位を明確にし、集団の統制を強固にする必要があり、その結果、集団墓が出現し祭祀に用いる石棒、玉などの日常の生活とは関係のない、象徴的な用具が多く出現し副葬品として発見されるようになったのであろう。
 千歳市キウス遺跡で発見された一五個の周堤墓の最大のものは、直径約八〇メートル、周堤の幅約一六メートル、高さ五メートル以上もあり、二五人がかりで約一二三日の労力が必要であるという試算がある。このような巨大な構築物は、ただ単に定住性の強い集落でのみ可能であるばかりではなく、安定した食料の確保にもとづく余剰労力と、加うるに強力な指導力を有する指導者が存在して初めて可能な事業といえよう。