善光寺地震関連コンテンツ

弘化4年(1847)5月8日(旧暦では3月24日)午後10時ころに北信濃(長野県北部)で発生した大地震。 マグニチュードは7.4で、震源の位置は東経138.2度、北緯36.7度( 長野市浅川清水付近)と推定されている。 死者は8000人から12000人とされている。たまたま善光寺(長野市)は御開帳中で、門前や境内には遠来の参詣者が多数宿泊しており、 身元の分からない犠牲者が多かった。善光寺飯山稲荷山新町などでは大規模な火災が発生した。 善光寺周辺の被害が目立つことから、善光寺地震と呼ばれる。内陸型の直下地震で、被害は家屋の倒壊にとどまらず、 山間地では大規模な山崩れや地滑りが無数に発生した。中でも 虚空蔵山(別名岩倉山)の崩落は犀川を堰き止め、 天然ダムを形成した。 天然ダムは4月13日午後になって 決壊し、 長野盆地と千曲川の下流域に大洪水をもたらした。 洪水の規模が大きかったにもかかわらず人的被害が少なかったのは、大洪水を 予期して高地へ避難していた住民が多かったからである。

その様子を伝える代表的な資料として、以下の4点があげられる。


  • 弘化丁未三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図

    上田藩領小県郡上塩尻村 の原昌言(1820~1886)が出版した善光寺地震の被害地図。弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図と1組になっている。 3月24日の大地震後、原昌言は新町の(長野市信州新町)の 親類を見舞うなどして、虚空蔵山の崩落や犀川の湛水などを実見し、この図を作った。 国学にも通じていた昌言は、余白上部に『三代実録』 『扶桑略記』 『日本書紀』 などの地震の記事を抜き書きして私見を述べ、この地震を歴史の中に位置づけようとした。 湯島の学問所に出版を願い出て、8月21日に許可されている。続いて上田藩の許可も得て出版にこぎつけた。


  • 弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図

    善光寺地震後の4月13日に起こった、犀川の天然ダムの崩壊による大洪水を描いた被災地図。 弘化丁未三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図とともに、上田藩領小県郡 上塩尻村の原昌言(1820~1886)が出版した。 昌言は妻女山(西条山)から大洪水の模様を実見した上で、この図を描いた。西条山の脇に、「川中シマ百姓水災ヲ恐レ、 サイジョ山辺ニ多ク仮ヤヲナス」と書かれているのも、現地での見聞による記載であろう。余白上部に、 3月24日の大地震から4月13日の大洪水に至る過程を記している。続いて4月13日に西条山で大洪水を実見したこと、 その後の余震についても記述している。


  • 地震後世俗語之種

    権堂村の名主永井善左衛門幸一が、善光寺地震の体験を子孫に伝えるため、絵と文章によって書き残した本。 絵も幸一自身が描いており、善光寺地震の被災者による記録として極めて貴重である。序文に嘉永元年戊申夏とあり、 地震の体験のほぼ1年後に完成している。原本は子孫に伝来しており、長野市指定文化財となっている。 写本は真田宝物館、国立国会図書館(書名『俗語之種』)所蔵のものが知られているが、 今回使用したのは信濃教育博物館所蔵の写本である。長野高等女学校初代校長渡辺敏が画工に写させた写本で、 渡辺が収集した長野史料の一部となっている。2冊に分かれ、「地震後世俗語之種」ではなく、「驚天動地録」と題されている。 原本全部の写しではなく、各領主の幕府への報告書、善光寺に関する資料など、著者の直接の体験でない部分は含まれていない。 渡辺は原本に忠実に絵を写させることを意識したようで、欄外の「多少原図ト異レリ」(1-59)、 「原図トハ多少異レリ」(1-66)といった文字は渡辺の記入したものであろう。原本にはない図もあり、 「謄写人ノ増補ニカヽル」(1-101)と記されている。

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  • むしくら日記

    松代藩の家老河原綱徳による善光寺地震の記録である。綱徳は学者としても知られ、松代藩主真田家歴代の事績をまとめた真田家御事績稿を著している。 藩の政務を担当していた人物が、地震後刻々と入ってくる情報をまとめたもので、善光寺地震の基本的な資料である。元亨利貞の4冊からなる。そのあらましは次の通りである。

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    •  3月24日の地震発生時から、大洪水が起こる直前の4月12日まで。
    •  出役していた役人からの報告。4月13日の大洪水。
    •  次第に明らかになってきた被害の状況。
    •  詳細に判明してくる被害の実態。

■善光寺地震の被災図

弘化4年(1847)3月24日に起こった善光寺地震の被害は広範囲に及び、被害も家屋の倒壊ばかりでなく、山崩れ、火災、水害などさまざまでした。

その全貌を伝えるため、被災状況を地図上に示した刷り物が流布しました。

その最も早い例は稲荷山(千曲市稲荷山)の小林五藤の手によるもので、6月下旬に出版されました。

以後何種類も同様の図が出版されましたが、その中で最も詳細なのが、原昌言(はらまさこと)が出版した「弘化丁未信濃国大地震之図」です。

これは「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」と「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」の2図から成っています。

■原昌言による出版

この図を出版した原昌言(1820―1886)は、上塩尻村(上田市上塩尻)の人で、後に庄屋を務めました。上塩尻は蚕種の製造販売で知られた村で、昌言もそれに携わっていました。

そうした中、昌言は広く学問を学び、ことに国学に通じていました。それは「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」に『三代実録』『扶桑略記』『日本書紀』等を引用していることからも分かります。

昌言は3月24日の地震後、水内郡新町村(長野市信州新町)の親戚を見舞い、大震災の被害の実態を目の当たりしました。また4月13日に犀川のせき止め場が決壊して善光寺平が大洪水になった折も、高井郡や埴科郡の養蚕家を訪ねるために出張中で、妻女山(長野市松代町)から一部始終を見ていました。

昌言はそうした体験をもとに被害の状況をまとめ、8月に幕府の学問所の許可を得、9月には上田藩の許可も得て、この2図を出版しました。

■上段の文章

冒頭で『三代実録』と『扶桑略記』の仁和3年(887)の大地震の記事を考察し、善光寺地震との類似性を指摘しています。現在では、仁和地震は南海トラフ沿いの大地震であって善光寺地震の前例ではないとする説が一般的ですが、大地震の周期性に言及したことは、原昌言の見識の高さを示しています。

続いて「水内」という地名の語源について述べ、歌枕でもある水内の曲橋(久米路橋)が流失したことを嘆いています。

■色分けされた絵図

弘化4年(1847)3月24日に発生した善光寺地震は、家屋の倒壊や火災ばかりでなく、山崩れが大きな被害をもたらしました。中でも虚空蔵山(岩倉山)の崩壊は犀川をせき止めて天然ダムを造り、4月13日にはそれが決壊して大洪水を引き起こしました。この図は、4月13日に大洪水が発生する前までの被害状況を図示しています。

山や川を描くのは当然ですが、凡例にあるように、駅市(宿場)、本郷(村)、支属(枝村)、温泉、新田、城、陣屋、古城、関、神社仏刹(寺院)、渡などが詳細に描かれています。その中に「崩山」「焼失」「洪水」「流失」「潰家」などが色分けして記入されています。

焼失は赤く塗られています。善光寺町(長野市)、飯山(飯山市)、稲荷山(千曲市稲荷山)、新町(長野市信州新町)などが全焼していることが分かります。善光寺は本堂・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて、焼失したことを示しています。

同様に「大本クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む46の宿坊群が焼失したことを表示しています。

一方、松代(長野市松代町)はやや色が不鮮明ですが、「荒神丁(荒神町)」「サカナ丁(肴町)」「カヂ丁(鍛冶町)」「中丁(中町)」「伊勢丁(伊勢町)」「本丁(本町)」「五アン(御安)」「アラ丁(荒町)」は黄色に塗られていて、「潰家」が多いことを示しています。

同じ松代城下でも、「ハクラウ丁(馬喰町)」「カミヤ丁(紙屋町)」「コンヤ丁(紺屋町)」が黄色で塗られていないのは、潰家が少なかったからです。須坂(須坂市)や松本(松本市)の城下も、町によっては少し黄色が塗られています。これは松代城下ほどの被害ではありませんが、一部に潰家があったことを示しています。

これらに対して、上田の城下にはまったく黄色がありません。上田ではほとんど潰家がなかったのです。村々も同様で、善光寺周辺の村々はほとんど黄色が塗られていて潰家が多いことを示していますが、そこを離れるほど村の黄色の量が少なくなり、上田周辺の村々にはほとんど黄色がありません。

山崩れで埋没した村や、水没した村も、詳細に知ることができます。

■観光案内図として

この図に描かれた北信濃は、江戸時代から、善光寺・戸隠・姨捨・川中島古戦場などの名所がある観光地でした。この図でも善光寺・戸隠は大きく記載されていますし、「姨捨山」の「長ラク寺(長楽寺)」(千曲市八幡)には「月見堂」「オハ石(姨石)」「メイシ(姪石)」などが記されています。その前に描かれた水田は、田毎の月で名高い棚田でしょう。

川中島古戦場は、旅人に案内図が販売されていました。この図もそれを参照しているようです。「川中島古戦場」として知られているのは「八幡原」ですが、その周辺には、「典厩寺」に「武田信繁ハカ」があります。やや離れて「諸角ブンゴ守ハカ(諸角豊後守墓)」があります。

千曲川の対岸には「山本勘介ハカ」があります。「武田信玄茶臼山陣趾」や「西条山」の「上杉謙信陣跡」も記されています。千曲川と犀川の合流点付近には「甲越和睦ノ地」という場所もあります。

千曲川の「猫ガ瀬」「十二ガセ」「犬ガセ」「ヒロセノワタリ」「古ノ馬場ノ瀬」といった地名も、川中島古戦場の案内図に記入されている地名で、この図がそうした案内図を参照していることが分かります。

また「高井野」(上高井郡高山村)に「元和中フクシマ氏コヽニ配流」と福島正則が流されたことを記し、「岩松寺」(上高井郡小布施町)には「福シマ正則ハカアリ」と、その墓についても記しています。

「栃ハラ」(長野市戸隠栃原)では、「天延中信乃守コレモチ、戸ガクシ山ノ鬼ヲキル」と、平維茂が鬼女紅葉を退治した伝説を記し、「鬼女の窟」「鬼ツカ」などを記載しています。

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善光寺地震について

現在、長野の地には善光寺地震の地震史跡とも言うべきものはあまり見られないが、 地震で死亡した被災者を葬ったが善光寺境内脇にあり、また本堂正面の回廊の柱には 地震の際に釣鐘がぶつかってできた跡が残されている。

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本堂正面の回廊の柱

善光寺本堂の正面の左右には、それぞれ釣鐘が下がっている。本堂の南西と南東の隅である。

地震後世俗語之種でも、本堂の絵(2-71)には左右に大きな釣鐘が下がっている様子が描かれている。弘化4年3月24日の夜に起こった善光寺地震では、この内、南西隅の釣鐘が落下した。

ここには釣鐘が地震の揺れによって外れ、落下する様子が描かれている。落下した釣鐘が当たってできた柱の大きなくぼみは、今も本堂の南西の隅の丸柱に残っている。

善光寺地震で善光寺の本堂は倒壊を免れたが、この釣鐘の落下は人々を驚かせたらしく、当時の他の記録にもこのことが記されている。

江戸時代の旅行者は、寺社に参詣すると、住所、氏名、年月日などを柱などに落書きしていく場合があった。 小林一茶は、善光寺本堂の柱に30年前に長崎で知り合った友人が前日に書いた落書きを見つけ、「しった名のらく書見へて秋の暮」と詠んでいる。

もちろん落書きはいつの時代も禁止されていたわけで、この図の柱には「らく書かたく無用」(落書き厳禁)と書かれた小絵馬が掲げられている。 柱に貼られた千社札も描かれているが、これももちろん現在は禁止されている。

山門の2階や経蔵の内部には、現在も江戸時代の落書きが残っている。

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善光寺・地震の詳しい話

現在、長野の地には善光寺地震の地震史跡とも言うべきものはあまり見られないが、地震で死亡した被災者を葬った地震塚(土屋仁輔の建立)が善光寺境内脇にあり、 また本堂正面の回廊の柱には地震の際に釣鐘がぶつかってできた跡が残されている。

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善光寺・ねじれた柱

現在、長野の地には善光寺地震の地震史跡とも言うべきものはあまり見られないが、地震で死亡した被災者を葬った地震塚(土屋仁輔の建立)が善光寺境内脇にあり、 また本堂正面の回廊の柱には地震の際に釣鐘がぶつかってできた跡が残されている。

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善光寺・城山公園北側

現在、長野の地には善光寺地震の地震史跡とも言うべきものはあまり見られないが、地震で死亡した被災者を葬った地震塚(土屋仁輔の建立)が善光寺境内脇にあり、 また本堂正面の回廊の柱には地震の際に釣鐘がぶつかってできた跡が残されている。

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地震塚

現在、長野の地には善光寺地震の地震史跡とも言うべきものはあまり見られないが、地震で死亡した被災者を葬った地震塚(土屋仁輔の建立)が善光寺境内脇にあり、 また本堂正面の回廊の柱には地震の際に釣鐘がぶつかってできた跡が残されている。

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岩倉山

岩倉山から崩壊してきた土石が犀川を堰き止めた天然ダムは、高さ約65m、幅約650m、 底部の長さ約1000m、上部の長さ約20mの台形をなしていた。

この堰き止めによって32Kmの長さ、 諏訪湖の1.2倍の面積を持つ湖が出現した(高橋、1986)。

ダムの下流では水が極端に少なくなり、丹波島渡は歩いてわたれるほどになった一方で、上流では増水した。

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虫倉山

虫倉山周辺では斜面崩壊により多くの集落が被害を受けたが、なかでも大田、藤沢の被害は大きかった。

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中条村の天然記念物の杉

現在の位置より180メートルも高いところにあったものが、滑り落ちて現在のところに移動してきたことによるものであり、いわば地震の生きた証拠ともいうべき杉である。

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梅木というところに転がっている凝灰角礫岩の岩塊

藤沢と同じように、虫倉山が地震の際に崩壊し、その一部が残っているものである。

このような岩塊は虫倉山南方(虫倉山は南方に向かって崩壊した)にはたくさん見られる。

梅木の北西には中条トライアルランドというオフロードバイクのスポーツ広場がある。巨岩が多数転がっている凸凹に富んだ地形がオフロードバイクの練習に適しているのである(赤羽、2004)。

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湧池

高橋(1986)によれば、岩倉山から崩壊してきた土石が犀川を堰き止めた天然ダムは、高さ約65m、幅約650m、底部の長さ約1000m、上部の長さ約20mの台形をなしていた。この堰き止めによって32Kmの長さ、諏訪湖の1.2倍の面積を持つ湖が出現した(高橋、1986)。

ダムの下流では水が極端に少なくなり、丹波島渡は歩いてわたれるほどになった一方で、上流では増水した。

新町村(現信州新町)では地震動による家屋の倒潰、火災に加えて増水により村は水没し、生き残った人々は高いところへ逃げ、「水の底には、かなしき両親や、恋しき妻子、又は兄弟、或いは乳呑児など、潰されつ、焼つ、溺れ死し、誠に魂魄この世にあらば、浮かんでみせや、あらわれやと泣き叫ぶ声目もあてられぬ(信州新町史 長野県被害地震史料集所収)」という惨状を呈した。

この崩壊の痕跡は現在でも明瞭な地すべり地形として残っている。

この池は地すべりによってできたくぼ地に水がたまったものであり、後方の急な崖は地すべり土塊が滑落することによってできた崖である。

今は静かなたたずまいを見せているこの池は水田の用水として利用されている。

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(13) 絵図表示: マウスボタンやタッチ操作で、絵図を自由にスクロール・拡大縮小できます。
(14) 透明度切替バー: 弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」(下絵図)の上に「弘化丁未三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」(上絵図)が重なっており、上絵図の透明度を切替えて下絵図を透かして見ることができます。
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