浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
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浜松の明治以降の資料

 【 解説 】

七科約説上編 七科約説下編 遠江国敷知郡浜松町全図 東照神君開運城跡浜松鉄城閣及市街略図
七科約説上編 七科約説下編 遠江国敷知郡
浜松町全図
東照神君開運城跡
浜松鉄城閣及市街略図

浜松鉄道案内 遠州電鉄及岩水寺遊園地御案内 浜松市を中心とせる名所史蹟交通鳥瞰図 博覧会及浜松市を中心とせる名所鳥瞰図
浜松鉄道案内 遠州電鉄及
岩水寺遊園地御案内
浜松市を中心とせる
名所史蹟交通鳥瞰図
博覧会及浜松市を
中心とせる名所鳥瞰図

天竜川実測図 浜松市全図 報国隊整列天龍川岸図 NEW 報国隊整列天龍川岸図 NEW
天竜川実測図 浜松市全図 報国隊整列天龍川岸図(左図) 報国隊整列天龍川岸図(右図)
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 『浜松の明治以降の資料』一覧画面

解説「浜松の明治以降の資料」

鈴木正之(浜松市立中央図書館業務アドバイザー・元浜松市史編さん執筆委員)

明治維新によりこれまでの旧遠江国の支配層の多くは転封となり、代わって東京から多くの旧幕臣たちがやって来て駿府藩をつくった。これは後に静岡藩と改称、さらに明治4年(1871)11月15日には浜松県が設置された。この浜松県の役人たちもその多くは旧幕臣や士族たちであったが、士族授産のため堀留運河の開削や三方原の開拓などのほか、近代的な産業、交通、教育、医療、社会をつくるべくさまざまな事業を行うこととなった。今日、これらの事業の歴史を知るにはこれまでに刊行された『浜松市史』三や『浜松市史』史料編五・六、『浜松市史』新編史料編一~四などを参照されたい。ただ、浜松市は明治以降2度の大火と太平洋戦争による大空襲で市内の中心部のほとんどが焦土と化し、良質な史料に乏しいのが実情である。
今回のデジタルアーカイブに搭載した資料は何れもこれらの災禍をくぐり抜けてきたもので、浜松市の歴史資料として価値がある。当時の絵図や地図は幾千万言を費やして説明してもなお全てを言い尽くすことは不可能なほど貴重なものである。このうち、『浜松町全図』と『東照神君開運城跡浜松鉄城閣及市街略図』は東京から浜松に移住した旧幕臣がその発行に携わっており、これまでこのような絵図や地図を目にしなかった浜松の人たちを驚かせたものと思われる。
以下、搭載された10点について簡単に紹介する。

1・2『七科約説』上編・下編

維新後の明治6年(1873)、浜松では西洋医学を取り入れた会社病院が設立され、翌年には県立浜松病院となった。この病院に併設された浜松医学校には多くの生徒が学んでいたが、西洋医学の本格的な教科書が日本にはなかった。そこで、浜松医学校の太田用成や虎岩武らはアメリカのペンシルバニア大学のヘンリー・ハルツホン博士の著書を翻訳し、『七科約説』として刊行した。七科とは解剖、生理、化学、薬物、内科、外科、産科のことで、上下2巻(上巻は明治11年、下巻は同12年)に分けて出版した。この『七科約説』は当時の医術開業試験の参考書としても注目され、当時医師を目指す医学生が買い求めたという。このような西洋の医学書が、当時は片田舎であった浜松宿で発行されたことは意義深く、また、この書物には上下2巻に合わせて477個もの木版画が挿入されているが、その精密で見事な図版は全て浜松の開明堂の鞍智逸平(くらちいっぺい)の彫刻になるもので、浜松の印刷技術が当時いかに高かったかが分かる。

3.『遠江国敷知郡浜松町全図』

明治28年(1895)に発行されたこの地図は、明治中期の浜松町の地図のうちでは最も充実したものである。丘陵や台地の斜面は「けば」を使うことによって土地の起伏をよく表し、また、これまでにないものとしては田、畑、竹林、松林など土地利用図の性格も持たせている。市街地には役所や学校、工場などのほか、有名な商店も数多く記し、その業種や屋号印なども加えている。今の住宅地図によく似ており、当時の人々には重宝されたものと思われる。著作兼発行者は旧幕臣の関川美建で、このほか多くの地図を発行している。また、彼は浜松測候所の初代所長でもあった。

4.『東照神君開運城跡浜松鉄城閣及市街略図』

浜松城は廃城後民間に払い下げられ、天守台には展望台としての鉄城閣が出来た。明治32年(1899年)に発行されたこの絵図の標題は『東照神君開運城跡浜松鉄城閣及市街略図』となっており、浜松城跡が維新後にどのように変わったかが多くの絵で記されている。また、犀ケ崖、西来院、雲立楠、東照宮など家康に関連するものも数多く描かれている。一方、鉄道の開通により大きく発展した駅前の状況や官公庁、学校なども絵入りで紹介されていて、誰にでもよく分かる浜松の絵地図であった。著作兼発行者の高須正朔は旧幕臣、浜松の士族会のリーダーで、旧主祖先の家康が開いた浜松城への特別な思いからこの絵図を作ったのであろう。

5.『浜松鉄道案内』

私鉄が乗客獲得のため駅名だけの路線図に周囲の観光地の絵を入れた鳥瞰図を作成したのは京阪電車が初めてで、大正2年(1913)のことであった。これは吉田初三郎が美しい絵で描いたことで評判となり、全国の私鉄が競って美しい鳥瞰図を作り始めた。
浜松鉄道が奥山まで全線を開通させた大正12年(1923)に作成したのが『浜松鉄道案内』で、筆者は地元で工務士を務めていた中根櫻である。浜松から奥山までの駅名を大きく記し沿線の観光地を巧みに美しく描いた。裏面には初山宝林寺や三嶽山、半僧坊などの沿線の観光地の案内が記されている。これらの案内図などにより、浜松の多くの学校の春と秋の遠足は沿線の気賀や井伊谷、奥山方面などになっていった。

6.『遠州電鉄及岩水寺遊園地御案内』

遠州電気鉄道が線路幅を国鉄線並みに改軌、電化開業したのは大正12年(1923)4月1日であった。これを機に乗客獲得のため、安産祈願や桜、松茸狩りなどで有名な岩水寺に大遊園地やホテル、大浴場、プールなどを建設した。この岩水寺遊園地をはじめ、秋葉山、光明山などの観光地も売り出そうとして作成したのがこの案内図である。作者は名古屋を中心に活躍した新美南果で、鳥瞰図が得意であった。ただ、遊園地などは色鮮やかによく描けているが、平野部には空間が多く、吉田初三郎の図に比べるとやや物足りなさを感じる。

7.『浜松市を中心とせる名所史蹟交通鳥瞰図』

浜松市は昭和5年(1930)の昭和天皇浜松行幸に際して、当時鳥瞰図の世界では日本一として評判の高かった吉田初三郎に浜松市とその郊外の鳥瞰図の作成を依頼、これには谷島屋書店の斉藤義雄の大きな力添えがあったようだ。市役所や官公庁、学校、工場、軍隊、社寺などが原色できれいに描かれている。東海道本線はもとより、遠州電気鉄道や浜松鉄道、笠井や中ノ町、宮口に行く軽便も記されている。郊外では秋葉山、半僧坊、井伊谷宮などが大きく描かれている。美しい浜名湖の描き方も見事である。

8.『博覧会及浜松市を中心とせる名所鳥瞰図』

昭和5年の昭和天皇浜松行幸に際して作成した鳥瞰図が好評だったため、浜松市は昭和6年(1931)の全国産業博覧会の開催に合わせて再び吉田初三郎に博覧会の東西2つの会場図入りの鳥瞰図を描いてもらった。前年のものに比べ市内の中心部を大きく描き、特に東と西の会場図は極端に大きく描いた。東会場のうち、天林寺に近い方面と東側の元浜町方面の間には二俣街道が通っていたため、事故防止の観点から高架橋(キリン橋)を架けたがその様子も見事に描かれている。この鳥瞰図は博覧会の参観者に配布され、好評を博した。

9.『天竜川実測図』

金原明善は天竜川の治水を行うに当たって精密な測量を実施し、多くの図面を作成したとの記録がある。それは河口から中善地村までの1/3000の実測原図や実測高低図など10点余に上る。しかし、これらの図面はどこにも残っていなかった。こうした中、平成19年5月になって、かつて金原事務所に勤務していた方のご子息のお宅に、明治17年6月に成した天竜川河口から二俣村までの1/30000の天竜川実測図が保存されていることが判明した。極めて精密な実測図で、当時の堤防、橋、量水標などのほか、沿岸の80にも上る村名などが記入されている。この図面を基に、国による本格的な改修工事が行われていったのである。現在は市町村の合併により、県内の天竜川沿岸の地方自治体は浜松市と磐田市だけになっている。

10.『浜松市全図』

本図は市役所の公図(縮尺1/600)を大正7年(1918)に浜松市で工務士を務めていた中根櫻が1/3000に縮図して編さんしたものだが、縦161.0㎝、横153.5㎝と大変大きい。この地図には大正14年の地籍整理以前の地籍・地番や町域が正確に記されており、48の大字はもちろん、今では使われなくなった字名が数多く(大字の元城には22の小字名)記入され、加えて当時の官公庁、社寺、学校、銀行、会社、工場、病院なども記されているので、町の歴史を知る上で貴重な地図となっている。明治以降もあまり変わらなかった江戸期の浜松の町並みや廃城後の城内の変化なども読み取ることができる。