浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
歴史資料一覧画面へ

絵図 国絵図

 【 解説 】

遠江国絵図 遠江国絵図 遠江小図
遠江國絵図 遠江国絵図 遠江小図



 『絵図 国絵図』一覧画面

解説「国絵図」

佐野一夫(元浜松市文化財課長)

国絵図
 国絵図とは、一般的には江戸幕府が諸国の大名に命じて作成・調達させた国ごとの絵図を指す。広義には、民間で刊行された国ごとの絵図の総称としての意味もある。

①遠江国絵図

「遠江國繪圖」との表題の縦230cm×横202cmの折図である。絵図の作成者や所蔵者の履歴は不明であるが、江戸幕府が作成・調達を命じた国絵図の下図ないしは控図と推定される絵図である。

【国絵図の内容】
慶長、正保、元禄、天保年間の4回、幕府による国絵図作成事業が行われた。国絵図は、一国を郡ごとに分けて、村々をすべて図示することを基本とする図である。作成基準は細かく指示された。以下は、正保元(1644)に作成を命ぜられた、正保国絵図の主な作成基準である。
a.国絵図・郷帳とも郡区分をして村ごとの石高、郡の石高集計を記入する。
b.道筋の縮尺は6寸1里。一里山図示。ない場合は36町間隔で一里を表示する。
c.本道は太く、わき道は細く、朱線で描く。
d.一里山と郷村間及び国境の道のりを絵図に記入する。
e.渡河地点は渡河方法、川幅、水深を注記、本道で冬に牛馬の通行不可の場合は注記する。
 諸国から幕府に提出された正保国絵図はすべて失われたが、作成時の下図・写図の一部は国立公文書館内閣文庫等の機関に保存されている。それらを見ると、小判形の村形を採用し、その中に村名と石高を記入している。郡区分は黒の郡界線で示し、村形は郡ごとに色分けされている例が多い。一里山は道の両側に黒丸で示される。絵図の一隅に、郡ごとの石高が列記されているのも特徴である。

【国絵図の作成手順】
まず各領主から村絵図や領分絵図等の資料が、各国の国絵図の作成を担当する大名・代官に提出され、境界等の調整を経て下図と郷帳(村ごとに石高を記載して郡ごとに集計し、一国全体の石高を記載した冊子)が幕府に提出された。幕府はそれに基づき、狩野派絵師に命じて諸国一定の様式に描かせたという。遠江国は、太田資宗(浜松藩主)、本多利長(横須賀藩主)、松平忠晴(掛川藩主)、松平親茂(代官)の4名が正保国絵図作成を担当した。

【遠江国絵図と正保国絵図の関係】
本絵図の左上に列記された郡ごとの石高が、正保国絵図に付属して提出された正保郷帳とほぼ符合する点から、正保国絵図と関連する絵図であるといえる。ただし作成基準に準拠する一方で、以下の異なる部分も見られる。
a.道筋の縮尺は六寸一里(縮尺21600分の1相当)とされるのに対し、本絵図は三寸一里(43200分の1)と、本来の縮尺の2分の1で描かれている。
b.一里山と郷村間及び国境の道法の記入が省略されている。
c.小判形の村形には村名が記されるのみで、石高が省略されている。また村形の枠内は彩色されず、郡ごとに色分けするとの作成基準とは異なる。郡名は長方形の枠内に記されているが、枠内は各郡とも赤色で塗りつぶされ、色分けされていない。
このように本図は作成基準に準拠しながらも、情報の省略が多く、絵図の大きさも作成基準の二分の一と小さい。さらに村形を消したり、修正したりした箇所もある。これらから本図は、正保国絵図の下図である可能性が高いといえよう。

【描かれた内容】
絵図に描かれた内容をいくつかのテーマを設定してみていこう。

<天竜川・馬込川・二俣川>
注目すべき点は、鹿島から馬込川(小天竜)が分流している点である。大天竜から小天竜(馬込川)を締め切る工事が慶安年間(1648~51)に着手され、延宝3年(1675)には彦助堤が築堤されるなどして、次第に水量が減少していった。本絵図は、それより古い状態を描いているといえよう。
二俣川は、寛政元年(1789)の流路付替え工事(鳥羽山城の東を掘削して流路とする)完成以前は、蛇行して二俣城と鳥羽山城の間を西に流れて天竜川に合流していた。本図に描かれているのは、この段階の流路である。
 天竜川下流部では、いくつかの大きな川筋に分かれて遠州灘へと注いでいた様子が描かれる。流路に囲まれた中州には、鶴見村や新貝村などの「鶴見輪中」、掛塚村や川袋村などの「掛塚輪中」が形成されている。一方、やや上流の現浜北区付近では、一村から数村の周囲を囲む線が描かれている。周囲を堤防で囲まれた中州の村々を描いているとみられる。

<東海道・天竜船渡>
「天竜舟渡シ」が西島村(西之島村)と富田村の間に記載されている。この付近では川の東西の村々の位置関係にずれが見られる。東海道の道筋も一部、途切れているが、寛文元年(1661)の池田村―富田村間への渡船場変更以前の状況を描いていると思われる。

<東海道の宿場・一里塚>
宿場名は楕円形や長方形の枠内に記載され、不統一である。見付町、掛川町、日坂には「伝馬所」、袋井町には「馬次所」と記載されるが、金谷村、舞坂町、白須加町は未記載である。白須加(白須賀)宿は塩見坂(潮見坂)の下に描かれているが、この宿場は宝永4年(1707)の宝永地震・津波によって壊滅し、潮見坂の上の台地上に移転している。一里塚は道の両側に黒丸で表記されている。天竜川から今切に至る区間の一里塚は、東から、安間、向宿、若林、篠原、舞坂の5ヵ所である。

<今切渡船と関所・御殿>
新居宿が、半島状に東へ突き出たところに立地するが、これは元禄高潮や宝永地震・津波による被害を受ける前の形状である。気賀関所や金指関所を示す「御番所」の記載はあるが、なぜか新居宿場東端の今切関所の記載はない。
舞坂宿では、宿場西端にある渡船場(雁下)南側に石垣が描かれている。これは舞坂宿を津波や高潮から守るために構築された宿囲石垣の一部と思われる。
今切渡船航路付近では、弁天島が描かれていない。宝永地震以前は狐島などの小さな島が4つあったが、地震以後、狐島の北側に波除杭の囲まれた今切渡船路が浚渫され、排出された土砂によって島が大きくなっていったという。
 なお、新居宿の南に将軍上洛時の宿泊施設である「御殿」の記載がある。徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍は慶長8年(1603)から寛永11年(1634)にかけてしばしば上洛した。その際は沿道の大名の居城のほか、「御殿」や「御茶屋」と呼ばれる施設に宿泊した。新居の御殿もそのひとつで、元和5年(1619)の秀忠上洛に際して造営され、元禄12年(1699)の暴風雨によって倒壊されるまで存続した。遠江国では、東海道筋では新居のほか、小夜中山、中泉、本坂通筋では、野地、三ヶ日に御殿があった。本絵図には、このうち小夜中山に御殿の記載がある。

<本坂通>
東海道の付属街道となる前の段階である。安間村での東海道との分岐点は一里塚の東に正確に記載されるが、浜松宿での分岐点の表現は不正確である。
 宿場はほかの村々と同様の表記であり、伝馬所などの記載もない。追分、東大山、老が谷、山田、大谷、三ヶ日、本坂、嵩山の一里塚が確認できるが、小池一里塚は未記載である。浜松宿から三方原追分に至る区間には一里塚はないので、一里の目安となる地点に黒丸が描かれている。

<城>
枠内を黄色で塗りつぶした方形の中に、浜松之城、横須賀城、懸河城および堀江古城の名が記載される。城の記載方法については明確な基準は示されていないが、現存するほかの正保国絵図下図では、本絵図のように方形の枠内に城名を記す例が多い。このほか枠はないが、宇津山古城の名もみられる。

<村名>
元禄郷帳をみると、正保郷帳作成時からの約五十年間で村名が変わった村がある。正保郷帳村名(元禄郷帳村名)で列記すると、周知郡は久野中村(中久野村)、豊田郡は須賀村(中田村)、押切村(森本村)、祢宜新屋村(森岡村)、百々村(宮本村)、薦ヶ脇村(太田村)、敷智郡では若林領家村(東若林村)、三嶋新屋村(楊子村)となる。本絵図記載の村名はいずれも正保郷帳に記載された古い村名である。

<その他>
三方原台地の南半部に木々が描かれるが、北半部は何も描かれず、原野であることを示している。山間部では山々の連なる様子が描かれている。主な山の名が記され、山住権現、白山権現、秋葉山などの信仰対象の山の名が記される。
 横須賀城南に入江が広がっているが、この入江は宝永地震で埋まり、湊としての機能が失われている。本絵図に描かれたのは、宝永地震以前の姿である。

② 遠江国絵図

 軸装、本図は縦230cm×横186cmと、①遠江国絵図(以下、①図)と、ほぼ同じ大きさであるが、縮尺や地形表現等の正確度は相対的に低く、絵図としても粗雑な印象を受ける。絵図の作成者や所蔵者の履歴は不明である。

【作成年代と目的】
本絵図右上の文章を要約すると、「文政10年5月7日に1万石を加増されて6万石を仰せ付けられた。翌11年3月23日に、遠江国榛原郡及び城東郡で1万2百石余を拝領したので、遠江国一国の図に拝領した領地を写す 持主 青山輝定」となる。これにより、本絵図の作成年代は、文政11年(1828)とわかる。

【領地を拝領した大名】
榛原郡および城東郡では小判形の枠内を黄色に塗りつぶした村があることに気づく。列記すると、〈榛原郡〉南原、四ノ宮、道上四ノ宮、道場、下庄内、上庄内、朝生、中西、中、堀内、〈城東郡〉神尾 丹野、古谷、川上、目来、猿渡、棚草、高橋、中方、下内田、赤土、沢水加の村々である。
 これらは、文政10年に丹波篠山藩領となった村々である。当時の丹波篠山藩主は長く老中の職にあった青山忠裕である。青山家は、延宝6年(1678)から元禄15年(1702)まで3代25年にわたって浜松藩主を務め、その後、丹波亀山藩主を経て、寛延元年(1748)から明治初年まで丹波篠山藩主であった家柄である。本絵図は、文政10年に榛原郡・城東郡において1万石の加増を得た丹波篠山藩主青山家が所領の把握のために作成したものである。青山輝定は、詳細不明だが、青山家ゆかりの人物と思われる。

【石高・永高表示が正保郷帳と一致】
本絵図は郡境を黒線で表示し、他国との国境には道法が記されるなど国絵図としての体裁である。方形の枠内に町の名、小判形の枠内に村の名を記載し、あわせて「○○石」と石高を記載しているが、一部、「永○○貫文」と永高を記載している村がある。永高とは、諸役賦課額を銭貨、特に永楽通宝によって表示する方法で、戦国期の東国で広範にみられ、江戸幕府の永楽銭通用停止政策以後も残存した。正保郷帳も石高表示を原則とする一方で、永高表示も併用された(元禄郷帳では、石高表示に統一されている)。永高表示が見られるのは、榛原郡北部12ヵ村、周知郡北部41ヵ村、豊田郡北部46ヵ村の計99ヵ村である。本絵図に記された各村の永高や石高の値が正保郷帳の値とほぼ一致することから、本絵図は作成時より150年以上前の正保国絵図・郷帳を参考にして作成されたことがうかがわれる。
丹波篠山藩主青山家は浜松藩主を務めた家柄で、元禄国絵図作成時には、横須賀藩主西尾忠成とともに青山忠重が、遠江国絵図作成の担当大名となっている。こうした経歴を持つ青山家なので、正保国絵図・郷帳作成時の資料が伝来していた可能性も推測される。一方で、なぜ元禄郷帳の値を採用しなかったのかは判然としない。

【描かれた内容の特徴】
次に絵図に描かれた内容を、①図と比較しながら検討する。

<天竜川・馬込川・二俣川>
①図では、馬込川は鹿島で天竜川と分岐しているが、本絵図では、柴本村付近から描かれている。これは築堤による天竜川からの小天竜の分離がある程度進んだ状態を示していると思われる。一方、二俣川の流路は、①図と同様に寛政元年(1789)の流路付替え工事完成以前の状態を示している。天竜川下流部の「鶴見輪中」「掛塚輪中」の状況は、①図と同様である。

<東海道・天竜船渡>
①図では渡船場変更以前の状況を描いているのに対し、本絵図では池田村と一色村の間に「天竜渡」と記載され、朱線で描かれた東海道の道筋は、天竜川東岸で北上し、池田村と一色村との間で舟渡、西岸で南下して中ノ町へと向かっている。こうした描写は、①図よりは新しい17世紀後半以降の状況を示しているといえよう。

<東海道の宿場・一里塚>
宿場名は長方形の枠内に記載される。間の宿である「菊川町」、代官所のあった「中泉町」、天竜川西岸の町屋である「中ノ町」、白須賀宿の加宿である「境町」の四町も同様に長方形である。一里塚の記載はない。

<今切渡船と関所・御殿>
本絵図では半島状の砂州が描かれず、①図と比べて西へ後退しているようであるが、この精度では宝永地震・津波との前後関係については断じることができない。宿場東端の今切関所の記載はない。気賀関所や金指関所も記されていないので、本絵図では関所の記載が意図されなかったようだ。
舞坂宿では、宿場西端にある渡船場(雁下)全体に石垣が描かれている。これは①図より広範囲である。今切渡船航路付近に弁天島が描かれていないのは、①図と同様である。
 御殿については、①図記載の新居や小夜中山は未記載だが、①図に未記載の本坂通筋の野地(本絵図の野田村は誤記か)に「御殿」の記載がある。寛永3年(1626)の徳川家光上洛の際に野地城に建てられた御茶屋御殿である。野地城は、延宝8年(1680)に廃城となっている。

<本坂通>
本坂通の道筋には、安間新田村で分岐する道筋と、浜松宿大手門前(現在の連尺交差点)で分岐する道筋があるが、どちらも東海道と同様に太い朱線で描かれている。気賀宿と三ヶ日宿の間には二つの道筋が描かれているが、図の上方の引佐峠を通る道筋が本坂通の道筋である。
 宿場については、明確な記載はない。本絵図では町場が長方形の枠で表されているが、本坂通の宿場である市ノ町、気賀町、三ヶ日町が長方形の枠で示されている。一里塚については、東海道と同様に記載されていない。

<城>
浜松、掛川には、数層からなる建物の絵が描かれており、城郭建築を示しているように思われる。横須賀にも建物の絵が描かれているが、寺院建築のようにも思える。横須賀の南には入江が広がり、「横須賀湊」と記載されている。この入江は宝永地震で埋まり、湊としての機能が失われたので、本絵図に描かれたのは、それ以前の姿である。

<村名>
正保郷帳作成時の古い村名が記載されるもの(豊田郡須賀村・祢宜新屋村・百々村)、元禄郷帳の村名が記載されていると思われるもの(周知郡中久野村―「中久」と記載・太田村、豊田郡森本村―「森下村」と誤記か)、未記載にわかれる。こうしたばらつきが何によるものか、判然としない。

<その他>
本絵図には、寺社の社殿や仏堂を示す絵が大きく描かれている。稚拙な表現で、大きさもまちまちである。例を挙げると、山住権現―鳥居と建物、神妻明神―鳥居と建物、秋葉山―建物、光明―建物、一之宮小国大明神―建物、大洞院―建物、初山(宝林寺か)―建物の絵、などである。気賀町や平山村にも建物の絵が描かれている。

【まとめ】
本絵図は、丹波篠山藩青山家が新たに領地となった榛原郡・城東郡の村々の把握のために文政11年(1828)に作成した遠江国一国の絵図である。作成に当たっては、正保国絵図・郷帳を参考としたと思われるが、随所により新しい要素も盛り込まれている。縮尺などの正確度は幕府が作成した国絵図に比して劣り、村々の位置関係も不正確である。誤記と思われる箇所も見受けられる。また絵図としての表現も粗雑である。

③遠江小図

 縦58cm×横71.5cmの折図である。折りたたむと縦三折、横八折で縦19.5cm×横9cmとなる。木版、八色刷。折りたたんだ表紙には「遠江小圖 完」との題字があり、「濵松小書巣 内田旭圖書」との蔵書印が認められる。印刷に当たっては表裏二面からなる版木四枚を用いたが、そのうち3枚が北区引佐町金指の実相寺に保存されている。

【作者と作成年代】
本絵図左上の凡例から、嘉永5年(1852)に金指の渡辺謙堂(本名 兵治)によって作図・自家版として開板・刊行されたことがわかる。
 渡辺謙堂は、文化6年(1809)生。引佐郡金指村で、家業の紙販売業を営んだ人物である。幼少より勉学や読書に励み、実相寺や宝林寺の住職に学ぶ。やがて家業の紙の納品で浜松藩邸や藩校に出入りし、浜松藩主水野忠邦家臣で和算家の原田団兵衛の教えを受け、天文、地理、和算、測量の知識も身につけたという。そして全国の正確なる地図を造ることを志し、その手始めとし作成したのが遠江小図である。そのほか滝沢鍾乳洞の測量図である「蟠岩奇洞ノ図」を作成し、大地球儀の制作も試みた。安政2年(1855)没。

【例言】
冒頭で「此図懐宝ノ為小ナルヲ尚ブ」と携帯用に小さくしたとある。そのため村落名、画数の多い漢字、新田号の表示などを工夫したと記す。村名については「尽ク挙ゲ配置悉ク正ス」、神社仏閣、名所古跡、古城跡等は「大抵ヲ挙ルノミ」とある。そして日本列島の位置を緯度で示した上で、この図は東西の官道(東海道や本坂通)は1寸1里(縮尺約13万分の1)で描くが、用紙の大きさにあわせたために南北方向の距離を縮めていると記す。郡名については、凡例欄の下に郡名読一覧を挙げ、「敷智 フチ也 シキチト読ムベカラズ」等、細かな注釈をしている。

【凡例】
凡例は右上に記載される。「御城」及び「御城下」は、浜松、横砂(横須賀)、掛川の三ヵ所である。「御陣屋」は代官所や旗本陣屋を示す。15ヵ所程度が記載される。浜松市域では堀江(高家旗本大沢氏)、志都呂(今切関所奉行屋敷、後に旗本松平氏陣屋)、大窪(旗本服部中氏陣屋)、内野(大谷近藤家陣屋、天保13年、三ヶ日の大谷より移る)、金指(金指近藤家))、気賀(気賀近藤家)、井伊谷(井伊谷近藤家)の「御陣屋」が記載される。今切(東海道)、気賀(本坂通)、金指(鳳来寺道)の「御関所」も記載される。
「神社」「佛閣」については、記号のみでなく寺社名を記すところも多い。「驛肆」をみると、東海道では宿場に加えて立場である天神町、代官所が置かれた中泉、本坂通では市野宿、気賀、三ヶ日、嵩瀬、鳳来寺道では金指町、井伊谷、伊平が該当する。このほか在郷の笠井、二俣、浦川、中部、犬居、森町などが、「駅肆」として掲載される。当時の町場とそれらを結ぶ朱線で描かれた道筋が、往来の状況を表している。
「村里」は、小判形で示されている。枝郷や里名は、本村の題字を傍書して記載している。例えば、秋葉山から鳳来寺へと向かう秋葉道沿いの石打、柴では、小判形の右に熊との傍書がある。石打、柴は熊村に属した集落であるが、本絵図の刊行された江戸時代後期には多くの参詣者の宿場として賑わった。熊の字がないが、一ノ瀬も同様である。
 「湊所」は、相良、川崎、掛塚、福田の4ヵ所である。福田湊には「横須賀湊ハ寶永四年丁亥十月四日大地震ニテ埋レリ其後山名郡福田村を湊トス」と記され、各所への海程も示されている。また「掛塚湊ヨリ江戸へ海程九十六里」、「相良川崎ノ両湊岸遠浅大船荷船不通」ともあり、海上交通の情報が盛り込まれている。浜名湖内の航路も記載し、「瀬戸口三十間」等の書き込みもある。
 「名所」は三方ヶ原、引佐細江、長者屋敷(鴨江寺西)、鳴瀬ヤシキ(瀬尻)、池田、一言坂、佐夜中山等が記載され、「音羽松枯幹今ニアリ」と、江戸時代の道中記等で名所として有名な音羽松が枯れ幹であると記す。「古跡」は浜名橋一所(新居、舘山寺西の2ヶ所に記載)、女屋、舟ツキ松(中泉)等が記載される。「古城跡」は仏坂、社山、奥山、牧之原(諏訪原城)が記載され、二俣城や佐久城の所在する場所にも古城跡の記号がある。

【幕府編さん国絵図との比較】
本絵図の仕様を正保国絵図作成基準と比較すると、以下のようにまとめられる。
a.小判形の枠を郡ごとに異なった色で塗りつぶしている点は、作成基準と合致する。石高については未記載であるが、本図の目的では不要であったのであろう。
b.道筋の縮尺は、1寸1里と6分の1の縮尺である。携帯用のため、この縮尺としたのであろう。また一里塚を黒丸で道の両側に表示する点も合致する。ただし、所在地が誤記されていると思われるところもある。
c.道の表記も作成基準と合致する。
d.国境への道のりについては、駿河、信濃、三河へ通じる主な道筋の国境には、各々、横須賀、掛川、中泉、浜松からの道法が記載されている。
e.渡河地点の表記については、天竜川の渡河地点に「往還舟渡シ」、大井川の渡河地点に「往還徒歩」と記されている点は作成基準と合致する。川幅、深さの記載はない。また大井川上流部には「此間岩道牛馬不通」と記されるが、これも合致する。この記載は①図、②遠江国絵図(以下、②図)ともにみられる。このほか、山々の連なる状態の描き方も、①図と共通する。
 以上から、本図は国絵図作成基準にほぼ準拠して作成されたようである。作成にあたっては、国絵図の下図、控図なども参考にしていたのではないかと思われる。

【描かれた内容の特徴】 
①図、②図と比較しながら内容を見ていこう。

<天竜川・馬込川・二俣川>
馬込川は、新原村の大池から描かれ「麁玉川」と記される。二俣川の流路は、寛政元年(1789)の流路付替え工事完成以降の状態を示す。天竜川下流部の「鶴見輪中」「掛塚輪中」の状況は、①図、②図と同様である。

<東海道>
天竜川東岸で北上し、池田村と土手屋村(不詳)との間で舟渡、西岸で南下して中ノ町へと向かう道筋である。宿場では、白砂(白須賀)宿が潮見坂の上に描かれ、宝永地震・津波で壊滅的な被害を受けた元の白須賀宿は「元白砂」と記される。

<今切渡船と関所>
新居宿は、②図に比べ、西へ後退した状態をより明確に示す。宿場東端には今切関所があり、本坂通の気賀関所や鳳来寺道の金指関所も記載される。今切舟渡は「今海上一里」と記され、弁天島の北に航路が描かれる。これは宝永地震後に波除け杭を打ち込んでつくられた航路である。①図にあった御殿の記載はない。今切渡船航路付近に弁天島が描かれていないのは①図と同様である。

<本坂通>
浜松宿から三方原追分に至る道筋が太く描かれ、安間起点から三方原追分に至る道筋は細く描かれる。これは明和元年(1764)に本坂通が東海道の付属街道になった点と、その道筋が浜松宿起点の道筋と定められたことを反映している。一里塚も黒丸で表示されるが、不正確なものも見られる。

<村名>
本絵図は、元禄郷帳作成以後の新しい村名で統一されている。

<その他>
三方原台地の植生表現は、南半部に木々が描かれるが、北半部は原野を示しているように思われる。三方原台地北半部と共通した表現は磐田原台地や牧ノ原台地でも見られる。このほか龍潭寺の近くに井戸の符号がある。「井伊共保出生の井戸」と思われる。

【まとめ】
本絵図は、渡辺謙堂個人によって作図・刊行された民間による国絵図である。従来の国絵図を参考として表記しているように見受けられるが、一方で渡辺謙堂の測量や和算の知識も活かされて、より精度の高い地図となった。明治維新後に浜松県が地図作成時に参考にしたという。また①図、②図は領国支配や年貢徴収のための資料としての性格が強いのに比べ、本絵図は利用者の便宜のために作成された絵図である。こうした点から本絵図は、近世と近代への架け橋となるような意味合いを持つ絵図であるともいえよう。