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絵図 浜松城と城下の絵図

 【 解説 】

1 浜松城絵図
遠州浜松城絵図 安政元年浜松城絵図 浜松城二の丸図
遠州浜松城絵図 安政元年浜松城絵図 浜松城二の丸図

2 浜松城下絵図
青山家御家中配列図 遠州浜松城下絵図 浜松城絵図遠州浜松松尾山引駒城下絵図 遠江州敷知郡浜松御城下略絵図
青山家御家中配列図 遠州浜松城下絵図 浜松城絵図遠州浜松
松尾山引駒城下絵図
遠江州敷知郡
浜松御城下略絵図

浜松御城下絵図 浜松御城下絵図略図
浜松御城下絵図 浜松御城下絵図略図

3 浜松城下のうつりかわり

NEW 城下絵図
浜松城下の
うつりかわり
【解説 】



 『絵図 浜松城と城下の絵図』一覧画面

解説「浜松城絵図と城下絵図」

佐野一夫(元浜松市文化財課長)

1 浜松城絵図

元亀元年(1570)に岡崎城から引馬城へ移った徳川家康は、西側の丘陵一帯へ城域を拡張して浜松城と名づけ、17年間を過ごした。近世城郭としての浜松城は、徳川家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴によって整備された。江戸時代には東西、南北それぞれ600mほどの規模を持つ大規模な城であった。その浜松城も明治維新で廃城となり、現在は天守曲輪や、本丸の一部、清水曲輪および西端城曲輪の一部が浜松城公園として残されているに過ぎない。そのため浜松城は小規模な城であるというイメージが広まっているが、決してそうではない。その姿を今に伝えるのが、以下の浜松城絵図である。

① 遠州浜松城絵図

【概要】
17世紀制作。軸装。縦157㎝×横90㎝。南(大手門)が上である。石垣は天守曲輪、本丸と、二の丸の一部、厩屋の一部、大手門の両脇一部と入った正面の枡形部分など中枢にみられるのみである。二の丸の外周や、清水曲輪、西端曲輪、三の丸南面などでは、土居の上に塀を巡らせ、塀には狭間が描かれる。大部分は土居のみを巡らしている。堀は水堀と空堀が色分けされる。水堀(灰色)は三の丸の南側(大手門付近より東)と東側、および古城の周囲に巡らせるが、他はほとんどが空堀(茶色)である。

【古城】
図の右下に堀や土居で囲まれた4つの曲輪が描かれ、それぞれ古城と記される。ここが浜松城の前身、引馬城にあたる部分である。絵図作成時には侍屋敷や蔵屋敷として使われたようだ。蔵屋敷があった西北の曲輪には、現在、明治17年(1884)に旧幕臣井上延陵らが創建した東照宮が鎮座している。また各曲輪間の堀切の部分は、現在も良好な状態で残る。

【天守曲輪】
浜松城の最高所にあたる。屈曲した石垣(下部は土居)に囲まれた中に天守台が描かれる。東側には付櫓、西側には八幡台と呼ばれる張出部がある。天守は描かれていない。江戸時代初期には失われていたようだ。天守台には、現在、復興天守が立つ。天守曲輪東に天守門、搦め手に埋門が描かれる。天守門は、近年、復元されている。

【本丸】
天守曲輪の東の石段を下りた一段低い部分にあたる。南に鉄門、東北に二の丸へと通じる裏門があり、東南の菱櫓(二重櫓)、北の富士見櫓が描かれる。本丸内には小規模な建物が2棟描かれる。本絵図には描かれていないが、本丸には将軍専用の御成御殿があった。将軍の利用は江戸時代初期に限られ、以後、使われることはなかった。現在、本丸の東半分及び南側は失われている。

【御誕生曲輪】
本丸の東には、土居と堀を隔てて、周囲を柵で囲んだ御誕生曲輪がある。徳川秀忠が誕生した場として「聖なる地」とされていた場所である。浜松市役所西北部から旧元城小体育館付近にあたる。平成23年(2011)の発掘調査では、家康在城期の井戸1基が発見されている。

【二の丸】
現在の浜松市役所北半から旧元城小学校校庭にあたる区域である。中枢施設である二の丸御殿(城主の館や浜松藩政庁)があった場所であるが、本絵図に御殿は描かれていない(二の丸御殿の詳細は「③浜松城二の丸図」参照)。二の丸の南側・東側南半部には堀と土居、西側の御誕生曲輪との間には堀、北側の広場との境には築地塀、東側北半部には石垣がめぐり、南の表門、東の裏門が描かれる。
二の丸北側の広場北端には「五社松」が描かれている。徳川秀忠の産土神である五社神社はもと浜松城二の丸にあったといわれるが、その名残を示すものであろう。また広場の東北には築地塀や堀に囲まれた御城米蔵もある。二の丸の南側には石垣や空堀に囲まれた御馬屋があり、その西には榎門が描かれる。

【三の丸】
二の丸・御馬屋や古城の南に広がる広大な区画が三の丸である。「侍町」と記されているように、家老などの上級家臣の屋敷が連なっていた。「④青山家御家中配列図」には青山藩政期(元禄期、17世紀末)に三の丸に屋敷を構えた家老など上級家臣の名と各屋敷の規模(間口、奥行の長さ)が描かれている。「⑤遠州浜松城下絵図」(19世紀半ば)にも屋敷を構えた上級家臣の名と屋敷坪数が描かれ、「②安政元年浜松城絵図」には「屋鋪」の区割りのみが描かれる。三の丸南端には浜松城の正門である大手門があり、両側に塀を巡らせた土居が延びる。三の丸東南偶には二層の隅櫓が描かれる。
三の丸から堀を挟んで南側は東海道で、大手門の南で直角に南へ折れる。現在の連尺交差点である。ここから堀に架けられた橋を渡って大手門をくぐると枡形の石垣につきあたる構造である。三の丸は、現在、オフィス街となっている。

【その他】
堀、土居、柵に囲まれた出丸(現在の浜松市立中央図書館敷地)や、天守曲輪南の清水曲輪、西の西端城曲輪が描かれる。西端城曲輪には空堀が描かれているが、近年の発掘調査でその存在が確認されている。西端城曲輪から端城門を通じて外側には、さらに堀、土居、柵に囲まれた曲輪が続く。枡形の通路・門をくぐって城外へ出ることとなる。

② 安政元年浜松城絵図

軸装、縦133㎝×横158㎝。安政元年(1854)11月4日に発生した安政東海地震によって倒壊・破損した浜松城内外の建物や石垣について被害状況を記した絵図である。図左上に「浜松 御普請方下書 安政元寅歳十一月四日辰刻己就地震後城内外所々潰幷破損所巨細書込 絵図方杉浦氏」と書き込まれる。多くの櫓、多門、門、塀が倒壊や大破した状況、本丸や天守曲輪の石垣が各所で崩れたり、孕んだ状況が記される。角櫓、榎門、二の丸表門、大手門前の使者詰所等に「皆潰」と記されるなど、被害の大きさが伝わる。浜松城外の武家屋敷や施設(東・中・西・名残番所、克明館、塩硝藏、高札場)も描かれ、これらの施設の被害状況も伝える。城から離れた東(馬込)番所付近は図右下、中番所・西(成子坂)番所付近は図右上(南北が逆)に描かれている。
 本絵図は、「①遠州浜松城絵図」(以下、①図)から約二百年が経過した19世紀半ばの浜松城や番所等の状態を示す絵図としても貴重である。曲輪の配置、石垣、土手、塀、堀の状態は基本的に同じであるが、①図と比べて詳細に描かれている。その特徴を列記しよう。

a.櫓や門が、名称はもちろんのこと、構造・規模が詳細に描かれ、注記されている。たとえば天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門という形式で、規模は「梁二間、桁六間」と記される(天守門は、本絵図や発掘調査の成果をもとに、近年、復元された)。本丸東南隅には二層の菱櫓があり、「梁四間桁五間、石垣高サ五間」と記される。
一方、本丸御殿や二の丸御殿については、詳細は描かれていない。天守曲輪では、天守はすでに失われているので、天守台石垣のみが描かれる。建物がある程度詳しく描かれているのは、浜松古城(引馬城)区域である。4つの曲輪のうち、北側の2曲輪はいずれも米蔵として利用され、木戸や柵で囲まれた区域に、西北で5棟、東北で9棟の建物(役所と藏)が描かれる。

b.①図には描かれていない作左曲輪や城北限の柵列が描かれる。また城の東西の侍屋敷や、三の丸の上級家臣屋敷地の敷地区分が描かれる。城下の東海道・本坂通の4ヶ所の番所については、木戸、柵、建物が明瞭に描かれる。藩校克明館は北側の門と東西に長い建物、稽古場、土蔵などが描かれる。

c.堀は、水堀(水色)と空堀(桃色)が区分けして描かれる。また石垣、塀、土手、柵が明瞭に描き分けられている。

d.東海道、本坂通、秋葉道は、枡形の特徴が描かれ、大手門前の宿高札場もある。

③ 浜松城二の丸図

 前述の浜松城絵図は、いずれも城の中枢建物である本丸や二の丸の御殿は、描かれていないが、二の丸御殿については、その詳細を描いた絵図が2枚ある。そのひとつは元禄年間制作の「青山家二の丸絵図」(本デジタルアーカイブ未登載)である。藩の行政機関が置かれた「表御殿」と城主の居館である「奥御殿」が色分けして描かれ、その詳細がわかる。
もう1枚が本絵図(浜松市立中央図書館蔵)である。軸装、縦93㎝×横120㎝。時期不詳であるが、『浜松市史通史編2』では、青山家二の丸絵図より新しい時期のものと推測している。本絵図と同様の絵図は浜松市博物館にあり、その受入簿によると「⑦遠江州敷智郡浜松御城下略絵図」、「⑨浜松御城下絵図略図」とともに、昭和32年(1957)7月15日に元目町中根桜氏が図書館の依頼により複写したもの、との注記がある。この点から浜松市立中央図書館蔵の本絵図も、同様の写しである可能性が高いと思われる。なお博物館蔵絵図と比べると、内容に若干の相違がある。この点から史料的価値の評価については、慎重にせざるをえない。本絵図の概略を述べれば、以下の通りである。
塀によって囲まれた二の丸の南に表門、東に裏門がある。表門を入ったところには番所がある。二の丸御殿は畳、板敷、竹縁が色分けされているが、あわせて1140畳(570坪)の大きな建物である。南半部は表御殿である。西寄りの表座敷、書院上段、座敷上間は藩主が執務や謁見に使用した部屋であろう。西北部は奥御殿である。西北隅の突出した一郭には寝間や湯殿などの生活空間がある。御殿の南には矢場があり、敷地内には数棟の土蔵も描かれる。


2 浜松城下絵図

 6点を登載している。このうち制作年代が判明しているのは、「④青山家御家中配列図」である。この絵図と類似するのが、「⑨浜松御城下絵図略図」である。宝暦年間の制作と推定されているが、本図は昭和25年(1950)10月に図写したものである。「⑤遠州浜松城下絵図」、「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」は、19世紀半ば、井上藩政期の制作と位置づけられる絵図である。「⑦遠江州敷智郡浜松御城下略絵図」は嘉永3年(1850)8月12日制作とされる図であるが、本図は昭和23年(1948)3月10日にそれを図写したものである。「⑧浜松御城下絵図」は、元禄年間前後の状況を描いていると推測される絵図の写しと思われる。

④ 青山家御家中配列図

 軸装、縦327㎝×横306㎝。浜松市博物館蔵。家臣団の屋敷を把握するために、浜松藩主青山家氏によって元禄年間(17世紀後半)に作成された絵図である。浜松城や武家屋敷のほか、寺社、町屋の配置が詳細に描かれている。凡例では、御家中(家臣の屋敷)、町屋、寺社、芝土手、道筋、水堀、空堀が色分けされている。
【浜松城】
石垣、芝土手、塀の巡る場所、水堀、空堀の区別は、①図と同様である。建造物については門、多聞は描かれるが、御殿等の建造物は描かれていない。天守曲輪には天守台が描かれるのみで、天守閣はない。
旧引馬城区域には楕円形の4つの曲輪が残されている。西北曲輪(現在は東照宮が鎮座)は「御蔵屋敷」で南に木戸がある。周囲は芝土手・山林で囲まれるが。その西半部には柵が設けられ、水堀も認められる。東北曲輪は「御扶持方藏」と記され、西南に木戸があり、周囲は土手で囲まれ、北と東は水堀、南は空堀が巡る。西南曲輪は屋敷地である。東南曲輪は「古御城」と記され、使用されていないようである。この4つの曲輪の間を南北に走る堀は通路として利用されている。

【番所】
東海道筋に3ヶ所、本坂通筋に1ヶ所の番所がある。浜松宿の東端の番所(東番所)は東海道馬込橋のやや西にある。番所の東には木戸や柵を設けている。大手門から東海道を南下した宿場の中程に御番所の区画が表示されている。中番所であり、現在の旅籠町交差点東北付近にあった。浜松宿の西のはずれ、成子坂にあった番所(西番所)の南側に木戸と柵が描かれる。大手門から南進した東海道は成子で西に折れで番所に入り、番所で南に折れ、木戸を出たところで、さらに折れて西へ向かっている。番所建物は、四角い区画で示されている。本坂通の名残番所の周囲に土手を設け、その上に柵を巡らす。規模は4間四方である。北側に木戸があり、本坂通は番所へ東から入って北へ抜ける。1棟の建物が描かれる。

【武家屋敷(橙)】
「御家中配列図」という表題が示す通り、浜松城及び城下の7地区に配された武家屋敷541戸の区画が表示され、人名や屋敷規模が記載される。(各地区の武家屋敷軒数は『浜松市史通史編1』による)

a.城内地域 
11軒。浜松城内三の丸にある上級武士の広大な屋敷である。大手門を入った右側は田塩蔵人の屋敷地で、間口52間、奥行き60軒で、3120坪である。

b.高町地域 
80軒。上級武士の屋敷が本坂通沿いに分布する。屋敷には人名が記され、規模は400坪から700坪程度だが、2750坪の屋敷もある。また神明神社から鴨江寺へ向かう道筋には20軒ほどの中間屋敷が並び、その小頭の屋敷は菩提寺前にある。中間屋敷の規模は100坪から200坪程度で、人名は記載されない。中間小頭の屋敷は人名が記載され、200坪程度の規模である。

c.元目地域 
47軒で、古城の東や北に分布する。東側では2間幅の狭い道(秋葉道)の両側に屋敷が並ぶ。100坪から200坪程度の比較的、小規模な屋敷である。

d.名残(なぐり)地域
 浜松城の西北、本坂通沿いの名残番所北側に配置される足軽組屋敷である。236軒からなり、武家屋敷総数の43%を占める。足軽組屋敷は小頭1人と足軽20人が1組であり、組ごとに一つの矢場を持つ。こうした組が10組配置されている。組の名は、高橋権大夫組、磯長政右衛門組などと記載されている。個々の屋敷の人名は記載されていないが、小頭の屋敷と足軽の屋敷の区分は明示されている。屋敷の規模は「御足軽小頭屋敷一軒に付百五坪宛之割、並御足軽屋敷一軒に付七拾五坪宛之割」と記載されている。足軽組屋敷の右上の正(松)林寺は、現在の善正寺にあたる。また名残口の辻番の屋敷もみられる。

e.白山下・愛宕下地域 
大手門から東海道を南下した地域で、現在の利町から元魚町付近である。21軒で、300坪から1000坪の比較的大きな敷地である。

f.後道地域 
現在の千歳町付近である。91軒を数える。名残地域と同様の足軽組屋敷である。小頭に率いられた町組という組屋敷(10軒1組)が2組、普通の組屋敷(20軒1組)が1組配置される。また成子番所の番役人・辻番・手代(2軒)・宗旨改手代(2軒)・道手代(2軒)の屋敷もある。南の一画には牢舎(牢屋、15間四方)があり、その番宅もあった。

g.早馬地域 
55軒。浜松城の東、旧引馬宿にあたる区域、現在の浜松八幡宮から遠江分器稲荷にかけての一帯である。200坪程から1000坪を超える規模の武家屋敷が並ぶ。400坪以下の屋敷が半数以上を占める。新川西岸には下屋敷や樹木屋敷が描かれる。

【町屋(青)】
絵図の目的が家臣団や式の把握にあるため町屋の記載は簡略である。人名や間口・奥行きは記載されず、「町屋」とのみ記載される。その分布をみると、東海道往還筋や大手門南側に連なっているのがわかる。「糀屋記録」(『浜松市史史料編1』)によれば、本絵図作成年代と近い元禄16年(1703)の町屋の軒数は1386軒である。

【寺社 (桃)】
神社では、五社神社、諏訪神社の現在も残る前面の切り石積石垣、諏訪神社の社殿西南の石垣(はまホール西南の石垣か)も描かれているのが目を引く。他に松尾明神、白山二諦坊、愛宕山、若宮八幡、金山宮、八王子宮、神明の鳥居や社殿も描かれる。寺院では鴨江寺が詳細に描かれる。観音(本堂)、御影堂(大師堂か)、弁財天、天王ノ宮、えんま堂、手向けの水と千体仏、池、五智如来、仁王門等が描かれる。他の寺院は、四角の中に名前のみが記されている例が多い。明治維新の廃仏毀釈などによって、廃寺となった寺院もみられる。

⑤ 遠州浜松城下絵図

折図、108㎝×81㎝。浜松市博物館蔵。19世紀半ば、井上藩政期の制作とみられる絵図である。浜松城内外の井上家の家臣屋敷の配置・規模を示す。西を上として描かれているが、地形は必ずしも正確ではない。道・土手・堀川・神社寺院に色分けされている。

【浜松城】
石垣は、天守曲輪・本丸、および二の丸の一部に認められる。他は土手の上に塀や柵をめぐらしている。門、木戸については名称を記す。天守門では「二階付」と注記される。天守台のみが描かれ、天守閣はない。将軍上洛時宿泊用の本丸御殿はすでにないが、藩庁や藩主の居所である二の丸御殿は描かれている。古城(旧引馬城)の4つの曲輪を見ると、北の2つは蔵、東南は樹木屋敷、西南は家臣の屋敷となっている。本丸や二の丸北側の低地には二条の空堀が描かれ、その北側には矢来が古城にいたるまで巡らされている。三の丸・大手門南の堀の外側に柵列が巡らされる(安政絵図と同様)。城内の各曲輪等の面積(坪)や石垣、塀、堀等の長さを記す点も、本絵図の特徴である。

【番所】
東、西、名残番所は「番所」と記され、それぞれ柵列が描かれる。西、名残番所は、枡形の道筋である。中番所は、「中番所」と記す。

【武家屋敷】
規模(坪数)や人名が記されている点は、御家中配列図と同様である。7地区からなる武家屋敷群の配置も、御家中配列図と大差ない。名残や後道に足軽組屋敷があるのも同様で、後道の牢屋も同位置である。名残では組ごとの面積が記載され、矢場も描かれている。後道では屋敷面積のみが記されるが、未記載の屋敷も多い。
ほぼ同時期の制作とされる「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」の同一箇所の武家屋敷人名と比較すると、同一人名が確認できるのは僅かであり、ほとんどは一致しない。制作年代が、ややずれているのかもしれない。

【町屋】
各町の往還沿いの長さや、庄屋・年寄・組頭の名前が記載される。例えば伝馬町の場合、東海道沿いの長さは「三丁十間」で、「庄屋 市左衛門、善吉、問や 喜伝次、年寄 弥助,庄助、清大夫、源蔵、平蔵、清兵衛、次郎兵衛、 組頭 次平」と記される。

【寺社】
朱印高あるいは除地が記されている。朱印高の最も多いのは、五社大明神・諏訪大明神の各300石である。「八町御旅所」と記されているのは、若宮八幡宮である。正徳4年(1714)から、浜松八幡宮の神輿の御旅所となったと「旅籠町平右衛門記録」(『浜松市史史料編1』、本デジタルアーカイブ登載)に記載されている。

【東海道】
大手門前や成子坂・西番所の枡形が描かれる。馬込橋より東は「馬込往還」「東往還並松」、上新町付近は「西往還」と記される。浜松領と他領との境も「馬込木戸外より東御領分境迄 間数二千五百八拾三間五尺、丁ニシテ壱里七丁三間五尺」、「上新町板橋ヨリ西御領分境迄 間数弐千弐百六十二間三尺、丁ニシテ壱里壱丁四拾二間三尺 内九拾三間上新町之内也」と記載される。

【本坂通】
大手門前で東海道と分岐した本坂通の枡形の道(「ひくま坂」と呼ばれる坂道)を西進すると、坂の途中に木戸が描かれている。道の両側には武家屋敷が並ぶ。高町で直角に曲り、武家屋敷の並ぶ道を北進すると名残番所である。枡形の道筋を辿って柵に囲まれた番所を通り抜けると、道の両側に足軽組屋敷が並ぶ。その北端には木戸があり、「サイガガケ」付近には「本坂通往還」と記されている。「サイガガケ」の東には、「塩焇藏」も描かれている。

⑥ 遠州浜松松尾山引駒城下絵図

折図。240㎝×180㎝、浜松市博物館蔵。制作年代は19世紀半ば、浜松藩井上家の家臣の名が記載されていることから、家臣屋敷の把握のために制作されたものと思われる。武家屋敷や寺院、町屋の建物が丁寧に描かれた絵図で、完成度の高い絵図である。

【浜松城】
外周の堀、塀や柵、門、櫓、樹木が外側からの視点で描かれているが、門や櫓の名称は記載されていない。詳細に描かれた大手門や隅櫓は、周辺の商家と比べて誇張されている。城内は全くの空白で、各曲輪の配置も描かれていない。例外は古城区域で、水堀に囲まれたかつての曲輪は多くの樹木に覆われ、藏、柵に囲まれた茅葺の建物が描かれる。西南の曲輪は永田保兵衛の屋敷地となっている。なお榎門と思われる城門の外側に、ひときわ大きな松が描かれているが、「鎧掛けの松」を示しているものと思われる。

【番所】
東海道筋の3つの番所、本坂通筋の名残番所が描かれる。いずれも番所建物、木戸、柵、槍立て、高札などが描かれる。

【武家屋敷】
「⑤青山家御家中配列図」や「⑤遠州浜松城下絵図」と同じく7地区からなる武家屋敷群の配置が描かれる。屋敷地には居住者の名前が記されるが、屋敷地の規模は記載されない。名残や後道の足軽組屋敷では名前も記されない。後道には牢屋も描かれる。ほぼ同時期の制作とされる「⑤遠州浜松城下絵図」と、同一箇所の武家屋敷の人名がほとんど一致しないことは、前述の通りである。
 この絵図の特徴は、各屋敷の建物が丁寧に描かれている点である。武家屋敷の建物には藁葺き屋根が目立つ点が特徴である。

【商家・町屋】
東海道沿いや小路の両側に町屋が並ぶ。浜松宿の東部(東番所~庚申堂~南能庵)では瓦葺きと藁葺きが混在し、西番所の先、上新町付近では、ほとんどは藁葺きである。これに対し宿場の中心部である大手門周辺から成子町にかけては、ほぼ瓦葺きで蔵を持つ家も多い。さらに隅櫓前の商家は蔵造りであり、武家屋敷に藁葺き屋根が目立つことと対照的である。町屋の中には、各所に夜燈が置かれる。
中番所のやや北側に問屋と書かれた施設がある。浜松宿の中枢施設であり、東海道を往来する人や荷物の継送りを手配した。五社神社参道と諏訪神社参道に挟まれた区域に、やや大きな建物が描かれる。記載がないので断定できないが、浜松宿最大の本陣、杉浦助右衛門本陣を指している可能性もある。大手門前には制札(宿高札)も描かれる。

【寺院】
五社神社や諏訪神社の境内の石垣や社殿の配置が詳細に描かれ、東海道からの参道入り口に鳥居があったこともわかる。また境内の手前には、「五社神主」「諏訪大祝」の屋敷が描かれる。西来院では本堂と築山御前を祀る月窟廟を指す「筑山」が描かれる。鴨江寺では仁王門や本堂をはじめとする多くの建物や池が描かれる。このほか浜松城下の多くの寺社が詳細に描かれている。

【万年橋】
東海道の新川にかかる欄干をもつ太鼓橋(板橋)が描かれている。文化4年(1807)の「東海道分間延絵図では「字欄干橋板橋」、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では「字欄干橋」と記されている。ここに万年橋と呼ばれる石造の太鼓橋が架けられたのは、安政4年(1857)のことである。この絵図が製作されたのは、それ以前ではなかろうか。

【参考】
「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」(以下、⑥図)の写しといわれる「浜松城下細見絵図」(本デジタルアーカイブ未登載)がある。武家屋敷、町屋、寺社の描き方は、ほとんど同じであるが、⑥図では緻密に描かれている樹木や屋敷が簡略化され、家臣の名が空白となっている。一方で、「浜松城下細見絵図」で記載されている浜松城外周の門や櫓の名称、城下の通りや町の名が、⑥図では記載されていない。また「浜松城下細見絵図」では西来院の築山御前廟所が「筑山御廟所」と記載されているのに対し、⑥図では「筑山」とのみ記されている。これらから両絵図は密接な関連があると推測されるが、「浜松城下細見絵図」を⑥図の写しとのみ評価してよいかどうか再検討の余地もあると思われる。
なお⑥図は周囲が一部切断されているが、「浜松城下細見絵図」は元の絵図の大きさを保っていると思われる。

⑦ 遠江州敷智郡浜松御城下略絵図

軸装。嘉永3年(1850)8月12日制作とされる図であるが、本図は昭和23年(1948)3月10日に浜松元目在の中根櫻が模写したと記される。同様の中根櫻による模写図は浜松市博物館にも所蔵されるが、昭和32年7月15日に模写したとあり、絵図の描き方もやや異なる。原図の所在が不明であるため、どの程度、忠実に原図を模写しているか不明確な部分もある。そうした状況を踏まえたうえで、絵図の特徴を見て行こう。
鳥瞰的に描かれる点が特徴であり、浜松城内の建物や寺社の建物が立体的に描かれているが、写実性という点ではそれほど正確とは思えない。
地名については、今はない町名が多くみられるのも特徴である。秋葉町・ハンコウ丁(半頭町)・清水町(以上の3町は明治15年に合併して三組町となる)、サルヤ(猿屋)マチ・成子坂下((以上の2町は明治15年に合併して成子町となる)などがある。
浜松城については、水堀と塀、大手門、榎門等の門、隅櫓等の櫓が描かれるが、城内の曲輪や建物の描写は正確でない。榎門と思われる門の外側には、鎧掛けの松らしき松が描かれている
番所は東海道筋の東、西番所、本坂通筋の名残番所が描かれるが、中番所は描かれていない。大手門前や西番所、名残番所の枡形の道筋は描かれる。後道に「ゴクヤ」(牢屋)、名残に煙硝藏もある。
武家屋敷は水色、町屋は灰色と屋根の色で区分しているようだが、家の大きさによる区別はない。寺社も多く描かれる。明治維新の廃仏毀釈で、廃寺となったところも多い。なお、高町に「半僧坊」が描かれているが、半僧坊浜松別院(正福寺)は明治17年(1884)に奥山方広寺が説教出張所を設けたことに始まるとされるので、本絵図の記載については疑問が残る。  

⑧ 浜松御城下絵図

『浜松市史史料編2』では、「年代は不詳であるが、宝永年間の製図と推測され、浜松本陣杉浦助右衛門家の旧蔵にかかわるものである」と解説する。宝永年間と推測した根拠は明らかでない。本絵図は浜松市立中央図書館にⓐ軸装、ⓑ折図の2点が収蔵されている。ⓑは元目町の中根櫻が昭和33年(1958)4月20日に模写したもので、浜松市菅原町の川島浦治氏所蔵図とある。ⓐは無記名であるが、同じく中根櫻の手による写しの可能性がある。模写の時期は、ⓐが先行すると思われる。本デジタルアーカイブではⓐを登載している。
ⓐとⓑではいくつか異なる点が認められる。図中に「定助」と注記された村が、ⓐでは東鴨江村、伊場村、東若林村、佐藤一色村の4村であるが、ⓑでは西若林村が加えられている。またⓐでは金折村が2ヶ所あるが、ⓑではその一方が向金折村となっている。おそらく、ⓐでの誤りを、ⓑで修正したと思われる。
村の石高をみると、10村で相違が見られる。後述する関連史料で比較すると、ⓐの方が正確とみられる。ⓑ制作時に誤写した可能性がある。凡例でⓐ領分境が、ⓑでは領分場となる。ⓑ制作時の誤写とみられる。寺院名では、ⓐの田能庵が、ⓑでは南能庵と記される。ⓑで修正したものとみられる。描き方では、色合いが異なり、文字の記入の仕方も異なる。
以上から、ⓑ制作時に、ⓐの修正をしたが、一方で誤写もみられるとまとめられる。ⓐⓑいずれも写しであるが、原図が不明であるので、どの程度忠実に模写しているか不明といわざるを得ない。

【絵図が示す年代】
浜松城下の町については、町名・軒数・町の大きさ(竪・横の長さ)、周辺の村々については、村名・石高・軒数が記載されている。城下の各町の記載データは、「浜松町数村数家数田地高間尺之帳」(『浜松市史史料編3』)と一致する。この史料は、延宝5年(1677)に伊場村岡部牛之助信堅が、浜松領内の町数・村数・家数・田地高と、浜松城の各出入り口から領内の各村への距離・隣村との距離・役家(本百姓)数をまとめたものである。
御伝馬町のほか、田町、肴町、旅籠町、塩町の4町には「御伝馬町ノ内」と記されている。これは浜松宿の伝馬人足の負担をする町(御役町)のことで、寛文8年(1668)に成立した。正徳2年(1712)には連尺町が加わって6町となるので、この絵図が示すのは、これ以前の状況である。
 また本絵図の左上隅には「遠州浜松」の町数23、家数1495軒(内224軒は御伝馬並人足役町5町)とあるが、寛文期以降、町数は24で推移している。また家数は元禄16年の家数(1386軒、御役町228軒,「糀屋記録」による)と類似する。
一方、村の石高や軒数も、ほとんどが「浜松町数村数家数田地高間尺之帳」や、「糀屋記録」(『浜松市史史料編1』)の「元禄七年(1694)浜松宿助郷村譯石高」と一致する。
また東鴨江村、伊場村、東若林村、西若林村、佐藤一色村の4村(ⓑ図では西若林村を加えた5村)には、「定助」と注記されている。この5村は、寛永14年(1637)の助馬制(参勤交代などの大通行の際、荷物の継立用の宿場の馬の不足を補うため、近隣の村から馬を徴発する制度)の導入に伴い、浜松宿の助馬村に指定された村々である。寛文年間には、助馬村を定助(宿人馬の不足を恒常的に補う人馬役を課された村)と大助(宿と定助の人馬だけでは不足する場合に人馬を徴発される村)に区分したとされるので、それ以後の状況を示している可能性がある。
本絵図の左上隅には、定助5ヵ村・高2014石7斗6升7合、大助81ヵ村23841石4斗2升9合と記載されている。先述の「元禄七年浜松宿助郷村譯石高」では定助16ヵ村・高5098石、大助44ヵ村15666石となっており、定助・大助の村数、石高に差がある。この差が何を示すか定かではないが、あるいは、元禄7年以前の状況を示しているのかもしれない。
 以上から、本絵図は、寛文年間から元禄年間にかけての頃の御役町などの浜松宿の状況と、浜松宿周辺の助郷村の状況を示しているといえよう。

【浜松城下】
浜松城は入り口にあたる大手門や堀・塀が描かれるのみである。東海道筋では、浜松城下の番所(東・中・西)が描かれる。東番所の東側や西番所の南側(城下・宿場からみて外側)には、木戸と柵が設置されている。また大手門前、西番所では東海道の道筋は枡形となっている。大手門前には、宿高札場が描かれている。柵内に5枚の高札が描かれており、実態に近い形である。本坂通や秋葉道は、東海道に比べて線も細く、簡略化された描き方である。名残番所も描かれていない。
 寺社は、一部のみが描かれる。庚申堂、田能庵(南能庵)、寿徳院、玄忠寺、五社大明神、諏訪大明神、法林寺、薬師が掲載されている程度である。

【浜松藩領の村々】
本絵図では、東西の浜松領境を両端として、東海道沿いの村々が記されている。東海道関係では、向宿・若林の2つの一里塚が黒丸で示される。沿道の松並木も描かれ、天神町は町場であったことがわかる。また若林から高塚にかけての東海道の南に蓮池が描かれている。

⑨ 浜松御城下絵図略図

『浜松市史史料編1』に「宝暦年間浜松御城下略絵図」として掲載されている。宝暦年間とした根拠は明らかでない。本絵図は浜松市立中央図書館に1部、浜松市博物館に1部収蔵されている。いずれも軸装である。図書館所蔵図には、昭和25年(1950)10月に浜松在の中根櫻が図写したと記載される。一方、博物館所蔵図は、浜松元目在の中根桜が昭和32年7月に図写したと記載され、右上に「宝暦年間城下絵図略図」との表題がある。大きさは図書館蔵が縦136㎝×横135㎝、博物館蔵が縦138×横141㎝である。原図の所在が不明のため、どの程度、忠実に模写しているか不明確な部分もある。
本図は「④青山家御家中配列図」と類似するが、武家屋敷と足軽屋敷を区分しているのが異なる。図書館所蔵図には武家屋敷の一部に人名が記載されるが、屋敷規模は記されない。一方、博物館所蔵図には武家屋敷の人名は記載されていないなど、記載内容に差異が見られる。
浜松城内も描かれる。石垣や土手、塀、空堀、水堀の配置も「④青山家御家中配列図」などと同様である。城の建造物については門、多聞は描かれるが、御殿等の建造物は描かれていない。天守曲輪には天守台と記載されているのみである。旧引馬城区域には楕円形の4つの曲輪が描かれる。西北曲輪(現在は東照宮が鎮座)は「古城 蔵」、東北曲輪は「藏」と記され、蔵らしき建物が描かれる。西南曲輪は家臣屋敷地で、東南曲輪は矢来に囲まれた「樹下屋敷」で「藏番」が置かれている。この4つの曲輪の中央を南北に走る堀は通路として利用されている。
城下の施設では、東海道筋の東・中・西番所、本坂通筋の名残番所、高札場が描かれる。東海道・本坂通の枡形の道筋も表現されている。
寺社は、名称と敷地のみを示したところが多いが、五社大明神、諏訪大明神、鴨江寺は境内の建物、石垣、池等が詳細に描かれている。