東金市/東金市デジタル歴史館

第Ⅱ章 古文書の世界

 歴史研究において、必ずと言っていいほど接する史料として文字史料があげられます。とくに古文書は、地域史を理解するうえで最も有効な史料といえましょう。
 今回掲載する史料は、東金に残る中世以降の代表的なものです。文字が語る史料から、いにしえを味わって下さい。

【中世の史料】
画像資料名資料の概要解説
準備中天正十九年上総国山邊郡山田村水帳市指定文化財。徳川家康が天正18年(1590)の江戸入府後、直ちに実施した検地に準ずるものであろう。領内の田畑を一筆ごとに実測し、水帳に記載した。(縦30cm、横19cm)。鈴木家所蔵
準備中北条伝馬手形市指定文化財。本漸寺四世日殷大僧正が京都より東金へ下向の折、天正11年(1583)12月1日、小田原城主北条氏政から下賜された手形。(31.5cm×21cm)
準備中装飾五輪塔市指定有形文化財。願成就寺。明治四十年頃に同寺に隣接する若宮八幡神社境内近くの畑地より出土、同寺の高台墓地に移設したと云う。この五輪塔の口伝によると、久我城主北条長時・久時・守時あるいは上総介・三浦介・千葉介の三介の墓で、法華宗改宗(1521年)の影響を受けて埋められたと云う。特徴から鎌倉時代後期作か。
準備中鰐口・市指定有形文化財。最福寺。仏堂の軒先に掛け吊るし、打ち鳴らして拝む銅製の仏具。(直径75cm、幅26cm、重量36kg)
「天文二十年十月題目講中 寄進」
・その他の鰐口:文明十八年上総国菅生庄椿長谷寺、寛永五年領主蓮如坊日順 寄進(東金市史総集編五 555頁)
準備中半鐘市指定有形文化財。本漸寺。文政13年(1830)に新しく鋳造されたという。鎌倉時代弘安3年の銘が刻書されている。(高さ約60cm、径約35cm)
【江戸時代の史料】
画像資料名資料の概要解説
元禄4年「御殿配置図」(写)―複製元禄4年「御殿配置図」(写)―複製小川家(上宿)所蔵。元禄四未年七月廿九日(1691)、早野権左衛門 他2名が作成し、板倉甲斐守様御内 高藤十太夫様へ納めた御殿の見取図。万延二年(1861)に大野傳右衛門がこれを写し、昭和十ニ年にこの写しを基に小川荘三郎が写した。
準備中文字曼荼羅(徳川家康)
「近江局」関連書簡「近江局」関連書簡茂原市立郷土美術館・歴史館所蔵。延宝六年(1678)「すい光院」 他2名が「こにし 日けう」(小西の正法寺 日堯)に宛てた書簡。移築した東金御殿(一部)の事が書かれている。
日吉大祭関連書簡日吉大祭関連書簡山王宮御祭礼関連書間
「五ヶ村民神山王神輿堂鍵」:柴家所蔵。文政二年(1819)
山王宮御祭礼の概要
東金町内田家治之助邸宅之図東金町内田家治之助邸宅之図内田家は幕末から明治初期にかけて、東金地域随一の豪商であり、福島(板倉)藩の御用達を務めていた。町名主も務め、福島藩分領(東金・田間・二又村)の支配にも深く関係し、藩から苗字帯刀、五人扶持を与えられた。
東金領主 板倉家関連書簡(一)東金領主 板倉家関連書簡(一)『内田家文書調査報告』史料26。刻付廻状(関東御取締御出役廻状写)。(差出人)東金町名主 平左衛門 他2名 (受取人)堀上村始 外9村。酉二月七日
東金領主 板倉家関連書簡(二)東金領主 板倉家関連書簡(二)『内田家文書調査報告』史料23。国々御巡見公儀ゟ被成御渡候御書付写。竪冊。宝暦十辰年八月十三日。
準備中真忠組新史料(古文書)三浦帯刀と楠木音次郎による「真忠組決起書」(文久三年亥年十二月)。山武市郷土資料館所蔵。
準備中真忠組騒動絵巻新たに発見された「真忠組騒動絵巻」。国文学研究資料館所蔵の資料を参考に描いたと考えられるが、詳細は不明(個人所蔵)。
高札①高札②高札③高札④高札4枚市指定有形文化財。橋本家所蔵。高札は掟や禁制などを板に書いて掲げ、その趣旨を人々に周知させたもの。本史料は17世紀後半から18世紀のもので当時の村の生活が伺える。特に「発砲禁止」の高札は、鷹狩りに関するものである。
植松是勝の数学書1 数学秘伝四集植松是勝の数学書2 第九章植松是勝の数学書3 合率連鎖 同雑類植松是勝の数学書4 算法雑問 法道寺善植松是勝の数学書市指定有形文化財(典籍)。植松家所蔵。幕末時に実際、地元宿村の家塾にて使われていた数学書。植松是勝について
準備中「新徴組隊士 伊藤滝三郎略歴」山武市郷土資料館所蔵。幕末、新徴組の隊員に東金出身(川場村)の伊東滝三郎が在籍していた。幕府が編成した「浪士組」は後に「新徴組」「新選組」に分かれ、各々苦難の維新へ突き進むことになった。
【関寛斎の新史料】
画像資料名資料の概要解説
並木家 関寛斎関連書簡1 「製錦堂 塾則」並木家 関寛斎関連書簡1 「製錦堂 塾則」「並木家文書調査報告」の78~79頁に翻刻文掲載。寛斎の養父関素寿が開いた私塾「製錦堂」の塾則。豊太郎(幼名)は若くして教役であったことが記されている。史料47(目録番号S1)。
並木家 関寛斎関連書簡2 「製錦堂百箇条」並木家 関寛斎関連書簡2 「製錦堂百箇条」同上報告の80~84頁に翻刻文掲載。近世の私塾の具体的な教育実態を示す資料として、上記の塾則と共に貴重な資料である。史料48(目録番号Q28-2)。
並木家 関寛斎関連書簡3 「今関俊輔」A並木家 関寛斎関連書簡3 「今関俊輔」A同上報告の85頁に翻刻文掲載。俊輔から求名村の並木角太郎(名主)に宛てた手紙。内容は衣類の仕立て代はいか程か、を尋ねている。史料49(目録番号A7-13-1)。
並木家 関寛斎関連書簡4 「今関俊輔」B並木家 関寛斎関連書簡4 「今関俊輔」B同上報告の84頁に翻刻文掲載。俊輔から求名村の並木角太郎(名主)に宛てた手紙。内容は、主に寛斎へのお見舞いに対するお礼。史料49(目録番号A7-11-20)。
並木家 関寛斎関連書簡5 葉書並木家 関寛斎関連書簡5 葉書多くは各知人からのお礼の葉書。新たに発見された葉書から寛斎の人脈を知ることができ、新たな展開が期待できよう。
関寛斎 和歌関寛斎 和歌述懐 一首。寛斎の主張する「潅水」に関して己の心境を歌ったものと思われる。
準備中関寛斎 和歌辞世 二首。八十三歳で自ら死を選んでいるがその死に先立ってよんだ辞世のうちの二首。
徳富蘆花 和歌徳富蘆花 和歌蘆花が寛斎に贈った歌。蘆花は寛斎と交流しており、小説『みみずのたはごと』には79歳の寛斎との出会いからのエピソードや陸別の事などが書かれている。
「急がじな楽み読まむ父の秘す生命の書を日に一葉づつ  建」
奥羽出張病院の旗奥羽出張病院の旗幕末に起こった戊辰戦争(1868年)時に新政府は磐城において野戦病院を設置し、その時の病院旗である。この病院頭取(院長)が寛斎である。